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記念館へようこそ

全国に5つある廣池千九郎記念館。月毎に各館の展示物を紹介します。NO.11~20

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February 16, 2017

写真は、大正13(1924)年、『道徳科学の論文』執筆のために滞在していた畑毛温泉・琴景舎(きんけいしゃ/高橋旅館)の離れで臥床中(がしょうちゅう)の廣池千九郎(ひろいけちくろう)です。

今回取りあげる「慈眼視衆生(じげんししゅじょう)」は、この写真の中央、部屋の奥にある掛軸に書かれていた言葉です。この言葉は『観音経(かんのんぎょう)』〔『法華経(ほけきょう)』普門品(ふもんぼん)〕 に出典のあるもので、「慈悲(じひ)のまなざしであらゆるものを視(み)る」という観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の慈悲心を説いたものです。

千九郎は、その後完成した『道徳科学の論文』の中で、「人間の慈悲心が最高道徳の実質の核心」(新版86頁)であると述べ、また「人為的に慈悲心を形造ろうとして苦心且(か)つ努力」(同�F98頁)してきたと述懐しています。一進一退の病状の中で、部屋に掛けられたこの言葉と何度も向き合い、慈悲心を自己に振り返って涵養(かんよう)しながら、この論文を執筆したと察せられます。

残念ながら、当時の掛軸はすでに失われていますが、現在も「『論文』執筆の部屋」にその複製品が掛けられ、執筆当時の様子を偲(しの)ばせています。

「立志説」- 志を記した漢文

February 15, 2017

「およそ人にしてまず定むべきは、これを志(こころざし)という」で始まるこの漢文は、廣池千九郎が17歳のころに書いたものです。ところどころ、小川含章(おがわがんしょう)先生によると思われる朱色の添削があります。

「志立たざればすなわち百事成らず。ゆえに聖人はかつて志の立つべきをいう」「孔子のいわゆる『仁を求めて仁至る』の類(たぐい)なり」。聖人に倣(なら)って志を立てることの大切さを述べており、とても17歳の青年が書いたとは思えない名文です。

では、このころの千九郎の志とは具体的に何だったのでしょうか。別の漢文に「今、予の志すところは師範学校に入りて教員にならんと欲し、そして望むところは民を化し(教育し)、国家を利するにある」と記しています。結果として師範学校には入学できませんでしたが、資格認定試験に見事合格し、教員として大いに活躍しました。

千九郎のその後の人生も、聖人の生き方を模範(もはん)として、「民を化し、国家を利する」道を一貫して歩んでいます。初志貫徹(しょしかんてつ)とは、まさにこのことでしょう。

「昭和十年度 献立表」- 廣池千九郎の親心を感じるメニュー

February 14, 2017

この資料は、昭和10年に開設された道徳科学専攻塾の食堂の献立表です。

ある週のメニューを見てみると、ビフテキ、フィッシュフライ、ライスカレー、カツレツなどが並び、とても豪華です。三百人以上の塾生や職員、その家族に、当時これだけのメニューを出すのは、大変なことだったはずです。

 

廣池千九郎は塾生の食事を大変重視し、在園時は必ず試食をして自(みずか)ら味を確かめ、食堂担当者に細かな指示を出しました。なんとか塾生においしい物を食べさせたいという親心を感じます。

 

本資料では、6月5日の夕食と6日の昼食の欄に、「大(おお)先生のおみやげ」とあります(大先生とは千九郎のこと)。千九郎は地方に出張した際に、自分がおいしいと感じた土地の食材をおみやげとして買って帰り、塾生に食べさせました。この時は、大量のワラビをおみやげとして持ち帰っています。

 

塾生たちは日々、心のこもった食事をいただき、勉学に励んだことでしょう

「道徳科学の論文」- 千九郎畢生の大著述

February 13, 2017

『道徳科学の論文』の初版は、昭和3年(1928)12月25日に、305部というわずかな部数で刊行されたものです。この初版本は、皇室をはじめ、当時の日本の指導者層に献上されたもので、刊行当初は一般向けの頒布(はんぷ)を予定していませんでした。また、初版出版後にはすぐに英訳をして「道徳科学」を世界の識者に提案する計画でしたが、翻訳は完成せず、海外渡航も頓挫(とんざ)しています。

実はこの初版本の前にガリ版印刷の謄写版(とうしゃばん)が存在しています。謄写版は大正15年(1926)8月17日に脱稿されたと伝えられています。この日はのちに、「道徳科学研究所の創立日」と定められました。論文執筆の場となった部屋は、現在、廣池千九郎畑毛記念館に保存されています。

『道徳科学の論文』は、現在では一般公開されており(昭和9年)、また英語版も完成(平成14年)しています。世界人類の安心・平和・幸福へ向けた千九郎の遺志は、同書を通じて引き継がれています。

「入浴の注意」- 千九郎の智慧が凝縮された注意書き

February 12, 2017

廣池千九郎の生涯は、病気と共に歩んだ七十余年間でした。強度の皮膚神経衰弱を患(わずら)っていた千九郎はさまざまな対策を講じて病気と向き合ってきましたが、なかでも温泉療法は千九郎の身体には相当の効果がありました。千九郎は全国九十か所以上の温泉を巡り、大正12年以降は1年のうちの6割近くを温泉で過ごしています。とはいえ、それは決して気楽な道中ではありません。なぜならば、病状が悪化したときこそが、温泉を求めて彷徨(ほうこう)する命がけの旅路のときだったからです。

湯治をめぐる千九郎の数々の経験は、谷川温泉開設に遺憾なく発揮されています。今回紹介する「入浴の注意」には、千九郎が身をもって検証してきた智慧(ちえ)が凝縮されています。「門人の中には、精神的には向上したが体の弱い人がたくさんいる。したがって、そのような人々を入れて霊肉ともにあわせて救わなければならない」(『伝記 廣池千九郎』661頁)。千九郎の想(おも)いがつまったこの温泉にぜひ入浴してみてはいかがでしょうか。

「臨終の部屋」- 廣池千九郎がその生涯を閉じた場所

February 11, 2017

大穴記念館にある「臨終の部屋」は、もともと「記念館へようこそ」03でご紹介した「偲(しの)ぶの湯」の脱衣場としてつくられました。入浴後、休憩できるように畳が敷かれ、障子や雨戸も取り付けられました。南側の窓からは悠々と流れる利根川を展望できます。ただし、あくまでも脱衣・休憩の部屋としてつくられたので、天井板も張っていない八畳の質素な部屋です。

母屋へは渡り廊下でつながっていましたが、千九郎はこの部屋をたいへん気に入り、昼夜過ごすようになりました。体調が悪いときに母屋から偲ぶの湯に行くのは、大変だったからかもしれません。そして、ついにはここで亡くなったのです。

今から77年前の昭和13年6月4日、10時55分、家族や側近に見守られながら、波瀾万丈の生涯を穏やかに終えました。しかし、千九郎の遺(のこ)した教えは、絶えることのない利根川の水流のように、今なお多くの人々の人生を潤し続けています。

「生野銀山孝義伝」- 恩師が著した善行者の行跡

January 01, 2020

明治16(1883)年、大分県師範学校の受験に失敗した17歳の廣池千九郎は、漢学者である小川含章(おがわがんしょう)〈名は弘蔵〉の私塾「麗澤館」に入塾します。わずか半年ほどの短い就学期間でしたが、当時72歳の小川含章から千九郎は多くのことを学んでいます。

今回紹介する『生野銀山孝義伝』は小川含章が38歳のときの著述で、生野銀山(兵庫県朝来市)周辺の善行者の行跡を調査してまとめたものです。その大半は父母や祖父母に対する孝行の事跡でした。

「よくその親に孝なれば、百行は従りて治まる。孝は水源にたとえられる。源が清ければ、下流もおのずと澄んでいくものだ--」。「自叙」の中で、小川含章はこのように述べています。親孝行は廣池千九郎が生涯にわたって大切にしてきた心がまえであり、それは幼少期からの母親の教え(「孝は百行の本」)でもありました。

『生野銀山孝義伝』は、千九郎の恩師の一人である小川含章の人となりを伝える貴重な資料の一つなのです。

「文房具」- 千九郎の戦友

February 10, 2017

学者にとって文房具とは、険しい学問の道を共に歩む戦友のようなものでしょうか。古代中国では、紙、墨、筆、硯(すずり)の四つを文房四友などと呼んで重んじました。

柏の本館には、廣池千九郎が使用したさまざまな文房具が遺(のこ)されています。そのほとんどが質素でとても高級なものには見えません。しかし、原稿用の和紙と墨だけはたいへん上質なものです。

木材パルプを原料とする洋紙と違い、楮(こうぞ)や三椏(みつまた)の繊維からつくられる伝統的な和紙は劣化しにくく、丈夫であるという特性があります。また、墨も炭素からできているため化学的に安定しており、保存性の高いことが知られています。このことは奈良の正倉院で保存されている古文書が、千数百年経(た)っても鮮明に読めることからもわかります。

千九郎にとって和紙と墨は、モラロジーに関する重要な原稿を末永く遺すために極めて重要な文房具でした。だからこそ、それらの中でも特に上質なものを使用したのです。文房具一つをとっても、千九郎の選択基準がどこにあるかがわかります。

「地方免許状」- 県知事から与えられた教員免許

February 09, 2017

明治21年4月、千九郎は万田(まだ)尋常小学校から中津高等小学校に転任しました。このとき、千九郎は尋常小学校の免許しか持っておらず、しばらく代用教員として勤めました。9月になって高等小学校の免許状を取得し、晴れて正規教員となります。

この免許状は第三代大分県知事の西村亮吉から与えられた地方免許状(取得した地方のみで有効)で、「右は明治21年9月1日より、明治26年8月31日まで5箇年間、小学校修身科、読書科、体操科教員たることを免許す」と記されています。なるほど、千九郎は知(読書)、徳(修身)、体(体操)をバランスよく教えていたのだなと感心します。

中津高等小学校時代の教え子で初代中津市長の佐藤寅二は、当時の千九郎を「生徒に対する教育態度は極めて真面目で、いつも肚(はら)の底から出るような誠意のこもった大きな気合のある声で教育し」ていたと、回想しています。千九郎は本校に4年間勤務した後、歴史家を志して、新天地京都をめざすのでした。

「行火」- 冬の道中を支えた暖房器具

February 08, 2017

谷川は冬になると深い雪に包まれます。谷川記念館は水上駅から車で10分ほどのところですが、廣池千九郎が過ごした当時は、雪の中を門人たちが幌(ほろ)付きのソリを引いて往復し、駅までなんと1時間もかかったそうです。今回ご紹介する「行火(あんか)」とは持ち運べる暖房のことで「回転こたつ」とも呼ばれる古民具です。六角形の木枠の中で炭火が常に水平を保つようになっていて、揺れても炭火が落ちないよう工夫されており、病身の千九郎の道中を支えました。

この行火について、千九郎は「炭火は大きいのではなく、細かいのを入れなさい」と語っています。大きい炭火は消えかかるとすぐ消えてしまうが、細かい火種をたくさん集めたような火は消えない、道徳もこれと同じで、何かあると消えやすい大きい炭火ではなく、たとえ少数の人々であっても心から取り組んでいるようなところでは、何事があっても火が消えることはないのだ、と。昭和13年1月14日に水上駅の待合室で語られたエピソードです。

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