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記念館へようこそ
全国に5つある廣池千九郎記念館。月毎に各館の展示物を紹介します。NO.1~10
過去の
記事①
「温泉の工夫」- アイデア満載の浴場
Tuesday, February 07, 2017
昭和12年、廣池千九郎は群馬県水上の谷川温泉に社会教育施設と温泉施設を開設しました。土地と温泉の購入交渉から建物の設計・建築にいたるまで、専門家にまかせずにみずから陣頭指揮を執りました。それゆえ随所にきめ細やかな配慮が活かされており、数多くの逸話とともに千九郎の人物像を今に伝えています。
例えば、浴場の床板に刻まれた斜線の溝。浴場の流し場を最初につくった際、水はけをよくして床板を腐らせないようにと傾斜がつけられました。それを見た千九郎は木の腐食よりも入浴者が足を滑らせることに配慮するように指示し、すべり止めの溝が刻まれたのです。浴場の設計だけでも、1人ずつ入浴できる箱型の浴槽や浴槽間に渡された樋(とい)などがあり、どれもが千九郎のアイデアと心づかいが反映された記念物といえます。谷川には千九郎の提唱する道徳を実感できるエピソードが数多く残されています。
「大学之道在明明徳」-『大学』とは何かを語りかける書
Tuesday, February 07, 2017
本館の自学室には、廣池千九郎が揮毫した「大学之道在明明徳」という書が掲げられています。これは中国の古典『大学』の冒頭に出てくる言葉で、「大学の道は明徳を明らかにするにあり」と読みます。文字だけを見れば「明らかな徳を明らかにする」と読め、不思議に思われるかもしれません。明徳とは、天から与えられた純粋、高貴で輝くような徳のことをいいます。しかし私たちは普段、さまざまな感情や欲のために明徳が曇って見えません。その隠れた徳を学問と修養によって明らかにしていくことが、大学の本来の目的だというのです。
この書は昭和10年1月に書かれたもので、千九郎はこれを同年4月に開設した道徳科学専攻塾の食堂の正面に掲げました。塾生たちは、この言葉の意味を噛み締めながら、3度の食事をしたことでしょう。現在、本塾の伝統を受け継ぐ麗澤大学にも書のレリーフが掲げられ、「大学とは何か」を学生たちに語りかけています。
「アイウエオ板」- 意思を伝えた五十音表
Monday, February 06, 2017
大穴記念館と谷川記念館の所在地・みなかみ町(群馬県)は、日本最大級の河川・利根川の水源としても知られています。その利根川上流のほとりの質素な小屋で、昭和十三年六月四日、廣池千九郎はその生涯を閉じました。この部屋は「臨終の間」として当時の面影を残したまま現在も大穴記念館に保存され、見学することができます。
千九郎は元気なころ、「私はこの筆が落ちるまで」と門人に語っていましたが、その言葉どおり、臨終の前日まで筆を執りました。しかし、ついには筆を握る力もなく、胸元へ落ちてしまいます。そこで側にいた門人が五十音表を大書してベニヤ板に貼り付けました。字を指さしながら、千九郎の意思を確かめるためです。このアイウエオ板を用いて、原稿を三か所ほど訂正したと伝えられています。
千九郎の生き方と門人たちの思いを凝縮したモニュメントとして、アイウエオ板は現在も「臨終の間」に飾られています。
「蚕業新説製種要論」- 養蚕の研究成果
Sunday, February 05, 2017
平成26年6月、群馬県の「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界遺産に登録されました。今回は、それにまつわるお話をします。廣池千九郎はみずからの養蚕の経験や関連書を研究した成果を、『蚕業新説製種要論』(明治20年)としてまとめました。これは養蚕の中でも最も重要な蚕卵の製造に関する著作です。明治24年になって群馬県の田島弥平に送り、校閲を依頼しました。弥平はわが国の近代蚕業に主導的な役割を果たした養蚕家で、明治初期に始まった宮中御養蚕の復興にも深くかかわった人物です。千九郎は『新編小学修身用書』(明治21年)で、弥平のことを2度取り上げています。
実は、冒頭で紹介した絹産業遺産群には、この弥平の旧宅(群馬県伊勢崎市)が含まれているのです。『蚕業新説製種要論』は、残念なことに公刊されませんでした。理由は不明ですが、時期的にみて、千九郎が『中津歴史』の執筆に専念していたからかもしれません。
それにしても、九州の一地方にいながら、弥平に注目した千九郎の卓見には驚くばかりです。
「『論文』執筆の部屋」- 千九郎が心血を注いだ場所
Saturday, February 04, 2017
大正15年8月17日、廣池千九郎の主著『新科学としてのモラロジーを確立するための最初の試みとしての道徳科学の論文』(略称『道徳科学の論文』)の謄写版が完成します。その執筆と編纂のメインステージとなったのは、静岡県にある畑毛温泉の旅館の一室でした。今回紹介するのは、千九郎が『道徳科学の論文』を執筆した部屋です。
温泉地に長期逗留というと風流なようですが、千九郎の場合は薄暗い粗末な部屋で病気に苦しみながら、また自身の心の動きを見つめ内省を続けながらの執筆でした。
千九郎が使用した部屋は旅館の粗末な離れで、のちに物置部屋となっていたものをそのまま譲り受けて部屋ごと移築したものです。現在では「『論文』執筆の部屋」を建物でまるごと覆って、大切に保存しています。
90年前にタイムスリップして廣池千九郎の生活を追体験してみてはいかがでしょうか。
「富岳荘」- 千九郎の別荘
Friday, February 03, 2017
静岡県にある廣池千九郎畑毛記念館には、昭和13年に千九郎が別荘として建てた富岳荘が残されています。
玄関には「富岳荘」と書かれた表札(複製)が掲げられていますが、これは千九郎が土瓶敷きに書いたもので、「富士は見るものではない。心で観て、あの富士のような人格を、と思い反省する」ものだという意味が込められています。
富岳荘は、梁や桁などの建物の骨格となる大切な場所には、良質で丈夫な木材が使われています。
一方、床の間の飾り柱には、虫食いのある安い杉材が用いられています。これは「実質本位の心を表現する」という教育的配慮からです。
また千九郎は伊豆半島に地震が多いことを踏まえ、「わしの建てた家が一番に倒れれば教育にならぬ。道徳の先生はさすがに最後まで残ったと言われるように、何もが範とならねばならぬ」と述べています。
このように富岳荘は、名も体も道徳的、教育的な理念のもとに建てられているのです。
「ハクキンカイロ」- 千九郎が体温調節に使ったカイロ
Thursday, February 02, 2017
ハクキンカイロは白金の触媒作用を利用したカイロ(懐炉)で、大正十二年に的場仁市(まとば にいち)が発明した日本発のロングセラー商品です。
現在ではカイロというと、使い捨てカイロが頭に浮かびますが、ハクキンカイロは昭和の時代の国民的商品であり、あの東京オリンピックでは聖火のスペアとしても使用されています。現在ではその経済性、耐久性、クリーン性から、環境にやさしい商品として再び脚光を浴びつつあります。
モラロジーの創建者・廣池千九郎は末梢神経の衰弱のため、最晩年に至るまで体温調節に苦労しました。体温保持のため、もぐさのカイロや灰式カイロなどさまざまなものを試していますが、そこに登場したのが、このハクキンカイロです。
千九郎は、真夏でも綿入りの着物にくるまり、ハクキンカイロを20個以上も入れて、体温を保持しながら、モラロジーに関する原稿の執筆を続けました。
廣池千九郎記念館には、その際のハクキンカイロが展示されています。
「偲ぶの湯」- 千九郎が最晩年を過ごした温泉
Wednesday, February 01, 2017
群馬県の大穴温泉は、廣池千九郎が最晩年を過ごした場所です。現在、地元では「うの瀬温泉」と呼ばれています。
昭和11年冬、初めて入浴した千九郎は「一浴すると、足のほうから疲れがすうっと抜ける」と言って気に入り、購入しました。温泉は千九郎にとって、身体を癒し、人心の開発救済のために、なくてはならないものでした。
この温泉は洞窟の中に湧き出しており、泉質は千九郎の身体にたいへん合っていましたが、泉温は33.4度と低く、温めて入りました。
昭和13年6月4日朝、長男の千英に抱かれ、千九郎は最後の入浴をします。
意識はほとんどありませんでしたが、安心しきった様子で湯につかり、その後、静かに息を引き取りました。
のちに、この温泉は「偲ぶの湯」と命名され、現在まで枯れることなく当時の面影を伝えています。
「永添小学校第七級卒業証書」- 廣池の最も古い資料
Tuesday, January 31, 2017
これは廣池の遺(のこ)した日付のわかる資料の中で、最も古いものです。この証書を見て、何かお気づきになりませんか?
まず、廣池は大分県中津の出身なのに、ここには小倉県と書かれています。実はこの当時、中津は小倉県の一部でした。明治9年に小倉県が廃止され、大分県に編入されました。
また、廣池は自分の幼名は千九一だと述べていますが、証書には千久一とあります。真偽は定かではありませんが、他の資料も同じ表記なので、正式には千久一だったようです。
「第五大学区」とは何でしょうか。明治6年に改定された「学制」では、全国を7つの大きな学区に分け、小倉県は第五区に属しました。小学校は年齢で下等と上等に分かれており、当時9歳10ヶ月であった廣池は下等小学校に在籍していました。
このように記念館所蔵の資料には、廣池個人の情報だけでなく、当時の社会の一端を知るさまざまな手がかりが記されています。
「護照」- 清国政府発行の通行証
Friday, February 10, 2017
明治41年(1908)年、神宮皇學館教授であった廣池千九郎は、東洋法制史研究のために清国(中国)に旅行をしています。この「護照」は、その際に清国政府が発行した通行証です。
清朝末期のこうしたパスポート書類は資料的価値が高く、中国では国家一級文物(国宝)に指定されているものもあるほど。廣池のものも光緒34(1908)年発行の貴重な資料です。
上面に大きく書かれた「護照」という言葉は、現在でもパスポートを意味する中国語として使われています。1枚で「査証(ビザ)」も兼ねており、下面には廣池の書籍と荷物を保護し、税関や関所を通行させるようにという欽差(きんさ)大臣(現在の大使に相当)からの要請が記されています。
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