top of page

Series Article

記念館へようこそ

連 載

生涯と業績

本シリーズでは廣池千九郎の生涯と業績を、エピソードを交えながら詳しく紹介します(月毎に更新)。

NO.105 阪谷芳郎の見舞状

廣池の体調と研究の進捗については、知人たちも気にかけていた。そのうちの一人に阪谷芳郎(さかたに よしろう)がいる。阪谷は、大正2年に行なわれた廣池の講演会に参加して、その活動に賛同し、大正8年からは大木遠吉とともに廣池の講演会を主催した(大正2年の講演会についてはNO.75、大木についてはNO.85・100参照)。

大正12年8月、廣池は阪谷から見舞い状を受け取っている。畑毛における療養で体調が少し良くなった旨を伝えたことへの返事であった。文中では、廣池の症状が軽快したことの喜びとともに、ヨーロッパ大戦後の人心の乱れに対して、人々を善導する学理とそれを唱導する学者の努力が欠かせないと記し、廣池の研究に期待を寄せている。このような期待に対して、廣池は『道徳科学の論文』執筆の思いを一層強くした。

この後、阪谷には、原稿の完成したところから送って意見を求め、さらに本書の序文を依頼している。

阪谷芳郎(1863-1941)・・・大蔵大臣、東京市長、貴族院議員などを歴任する。明治神宮、明治神宮野球場の造営や乃木神社の建立のほか、各種の公益事業にも尽力した。

No.104 関東大震災 大正12年(1923)

大正12年9月1日午前11時58分、相模湾沖を震源として地震が発生し、関東一円に甚大な被害を及ぼした。関東大震災である。マグニチュード7.9、最大震度6。被害は全壊13万戸、全焼約45万余戸、死者・行方不明者約14万名といわれる。廣池は畑毛で、妻・春子と子供たちは東京で罹災した。

畑毛は、東京ほど揺れは少なかったが、当日廣池は建物の倒壊に用心して野営した。昼時ということもあって火の手は瞬く間に広がり、東京は火の海に包まれた。しかし、春子たちが住んでいた牛込区神楽町の周辺は比較的被害は少なく、家も屋根瓦や壁の破損程度で済み、火災の被害も無かった。

春子たちは偶然にも大きな被害を免れた。8月20日から震災前日まで、春子は、長男・長女の一家とともに避暑のため平塚の貸別荘に滞在していた。8月31日、春子はもう数日の宿泊を希望したが、家主から断られ、しぶしぶ東京に引き上げてきた。震災当日、その貸別荘は全壊した。もし希望通りに滞在の延長が叶っていたら、無事では済まなかったことが想像できる。

また、長男の千英(ちぶさ)も、この日たまたま体調不良で会社を休んでいたため、建物の倒壊や火災に見舞われなかった。このように少しの偶然が重なって大事に至らなかったことには、廣池も春子たちも何か感じるところがあったであろう。

No.103 畑毛での様子① 大正12年(1923)

畑毛温泉滞在中、廣池は『道徳科学の論文』の執筆に専念していた。それまでに収集した内外の専門書を部屋に持ち込み、大量の書物に囲まれながら研究に没頭した。蓄積してきた研究の成果や自身が実行して得られた経験を考証の材料にして論を構築し、筆先に表した。

部屋に積まれた蔵書は主に道徳実行の効果を証明するためのものであった。中でも洋書は、廣池の専門とする学問以外の人文科学・自然科学など他分野の知識を広くカバーするだけでなく、最先端の研究を取り入れるために欠かせない書物であった。引用に必要な箇所は付箋が挟み込まれ、アンダーラインが引かれるとともに翻訳もなされた。

廣池は病と向き合いながら寸暇を惜しんで執筆に勤しんだ(病状についてはNO.101参照)。湯舟に浸かったままでも、不調で寝込んだままでも、いつでも原稿をしたためられる準備をしていた。発熱と発汗を繰り返す中でも、思いついたら筆を執る、というようなことがしばしばあった。発汗は2時間おき、ひどい時には1時間おきに起こり、そのたびごとに入浴していた。しかし、どんなときも思索をとめることはなかった。

このような壮絶な生活を経ながら、畑毛では『道徳科学の論文』の執筆が大いに進んだのである。


※画像 部屋で休む廣池。周りには蔵書が積まれている。

No.102 畑毛温泉へ 湯治と執筆 大正12年(1923)【57歳】

8月、廣池は研究に専念するため療養を兼ねて静岡県の畑毛温泉へ訪れた。廣池は30代のころから畑毛温泉を静養の地として利用していたようで、明治44年には家族を連れてきたこともあった。このように畑毛温泉との関わりは生涯を通じて長きにわたっている。温泉宿といっても、当時は小規模な温泉場であり、アクセスも不便であった。それでも廣池がこの地を利用したのは泉質が身体に適していたからである。「とにかく皮膚の神経に効くことは日本一と考える」、あるいは「一浴毎に、目に見えて」身体に効く、と述べている。廣池はこの年から大正14年まで畑毛温泉で体調を整えつつ、研究に専念した。


※画像 廣池が借りた部屋。現在廣池千九郎畑毛記念館で保管されている。

No.101 治療に湯治を採用する 大正12年(1923)

大正元年の大病以来、廣池は原因不明の病と向き合っていた。症状は、発熱と間欠的におこる大量の発汗、加えて体温を一定に保つことができないというものであった(廣池の体調と精神療法についてはNO.91でも触れている)。大正12年2月には「遺言状を認む」ほどの状態となり、このあとは「面会謝絶、新聞も読まず、手紙も書かず、絶対安静にする」しかないというほどの不調が続いた。

廣池はこれまで療養のために、紅花を使った生薬・塗薬、グリコーゲンやタカヂアスターゼ、クラフト、ビータ、プレミン、人参など種々の滋養剤、外国製の薬のみならず電気治療など、あらゆる治療を試している。結果、温泉が効果的であることが分かった。

小康を得た廣池は、この年から本格的に温泉療法を採用することに決めた。入浴後は発汗も和らぎ、一時的に安定した。以降、湯治をしながら研究と講演を続けたのである。

No.100 華族会館における講演会 大正12年(1923)

7月10日夜、大木遠吉主催の講演会が華族会館で行われた (廣池と大木の関係はNO.85参照)。数日前から体調を崩していた廣池は、当日も微熱がありながら登壇した。

本講演で廣池は、現代の世相を踏まえ、「科学の力」によって社会を構成する原理と個人及び団体の幸福との因果関係を明らかにして、教育面から「個人を開発し以て人心」を改良し、これによって社会の善導を図っていかないといけないとした。したがって、政治・法律・経済・産業その他あらゆる分野の機関は、科学的な根拠を持った道徳教育の上に構築しなければならないと説いた。そのうえで「モラル・サイエンスの必要」を述べ、自身の研究の経過、最高道徳の実行者の教説とその根本精神である「慈悲寛大自己反省」を示し、道徳実行の効果や教育の方法等を説明した。このように理路整然と、モラル・サイエンスと最高道徳の内容を説き、その必要性を訴えた。

講演の全体的な理論・問題提起は、8月より執筆を本格化させる『道徳科学の論文』の章立てに共通する部分があり、着々と構想が練られていたことがわかる。

No.99 モラル・サイエンス研究所の設立の構想   大正11~12年

廣池は、活動を続けていく中で、研究の拠点すなわち研究所の必要を感じていた。大正11~12年のころにはモラル・サイエンス研究所設立に関する原稿が散見される。まず大正11年には「モラル・サイエンス研究所要領」「研究所設立の計画」「研究所計画」などの文書がある。 「モラル・サイエンス研究所要領」には直接研究所設立に言及する記載はないが、モラル・サイエンスの説明、研究の目的、その普及など研究所の役割と捉えられる内容が記されている。「研究所計画」には所長・助手という役職、その人件費、ほか翻訳料、研究費についての記載がある。

大正12年の「モラル・サイエンス研究所設立の主旨」では“最高道徳の科学的研究のために研究所を東京に設立し、各国に普及する”“研究所の半面の事業は、宣伝のために著作・出版・講演を行う”とあり、設立の主旨がより明確になっている。これらの事業を通じて思想の問題・国際関係・労働問題などの改善を目指している。このように研究所設立の社会的な意義を端的に示した。講演や研究、有識者との面会という活動の一方で、着々と研究所の構想を固めていた。

No.98 杉浦重剛と対談する    大正12年(1923)

6月、廣池はモラル・サイエンス研究について、杉浦重剛(すぎうら じゅうごう)とも意見を交わした。

廣池は、杉浦が「人類の文明及び幸福は合理的なる道徳の発達にあることを悟り、物理学の法則を人間の行為の法則に応用して、道徳を説明」しようとした人物として、この対談で聞いた彼の理論を『道徳科学の論文』の中で紹介している。

「合理的なる道徳」とは何か。杉浦は「物質と勢力」の観点から、「人間の行為」を「人間の勢力(energy)」とみなし、人間の道徳的行為は幸福を生じ、不道徳的行為は不幸を生じるとした。行為の累積の結果は物理学のコンサーベイション・オブ・エナジー(勢力の保存)に当たる。故に中国古典『周易』にある「積善の家には必ず余慶(よけい)あり、積不善の家には必ず余殃(よおう)あり」という教えは、人間の行為に対する一つの勢力の保存を説明するものであるという。

以上のように杉浦は近代自然科学と儒教道徳の折衷を説き、人間の行為と幸福の因果関係を示そうとした。このため廣池のモラル・サイエンスにも賛同した。


杉浦重剛(1855~1924)

教育家・思想家。大学南校(のちの東京帝国大学)卒業。明治9年(1876)から政府留学生としてイギリスで科学を学ぶ。帰国後は東京大学、読売新聞の勤務を経て、文部省参事官兼学務局次長、衆議院議員、東京英語学校長などを歴任した。大正3年(1914)より、東宮御学問所御用掛となり、倫理(帝王学)を担当した(同10年に退任)。

No.97『道徳科学の論文』執筆の準備が整う ‐洋書の収集 大正11年(1922)

 廣池は『道徳科学研究所紀要』(昭和6年)に次のように記した。「大正四年以降初めて具体的に『道徳科学の論文』(中略)の内容の組織に着手し」「傍ら必要なる内外の書籍の購入に着手し大正十一年には必要なる英、独、仏その他の外国書もほとんど備わり」「その大著述の内容の組織もすでにひと通り出来て目録体の原稿が出来上り」「更に内外の書籍より本書に引用せんとする項目にはいちいちその書籍の欄外に附箋を施し(後略)」。このように『道徳科学の論文』執筆の準備は着々と進められた。

 洋書は、廣池にとって道徳実行の効果を検証するために欠かすことのできない研究資料であった。学問領域としては多岐にわたるが、一部をとりあげると、生物学者ジョン・アーサー・トムソンの『科学大系』、進化論者T・H・ハックスリーの『自然における人間の位置』、生物学者エルンスト・ヘッケル著『人類発生論』などがあり、自然科学的な文献が多い。

 洋書を開くと、多くの直筆による書き込み、アンダーライン、文章を認めた紙が貼ってあるなど、廣池の研究の足跡があるのが見て取れる。このような研究の痕跡は、廣池が科学的な根拠に基づいて道徳を説こうとした証拠なのである。


画像は、洋書(約2500冊)が保管されている廣池千九郎記念文庫(収蔵展示)。

No.96 自身の精神向上の必要性を痛感する 大正11年(1922)

大正11年8月、廣池は日記に


「松方老侯始め上流階級を感化して最高道徳を高貴な人々に普及するには、自分の精神をうつす必要がある。どのくらい自分の精神を陶冶することができるか。偉大な精神に至らなければ、高貴な方々をどうして感化なんてできようか」(意訳)


と記し、自身の精神向上の必要性を痛感している。これは同月20・21日元老・松方正義を訪問するにあたっての心情を書き綴ったものである(会談についてはNO.86参照)。

 このように廣池は会談や講演で最高道徳について述べる際、学術的な根拠をもって整然と理論を説くのみならず、その理論に基づいた実行によって、対象を感化しえるほどの品性の向上に努めていた。廣池にとって、モラル・サイエンスの研究は、このような努力をともなうものであった。

​過去の

記事

bottom of page