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連 載

生涯と業績

本シリーズでは廣池千九郎の生涯と業績を、エピソードを交えながら詳しく紹介します(月毎に更新)。

NO.82 斯道会──国民道徳の推進  大正6年(1917)

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このころ廣池は斯道会の活動を通じて、講話や著述を行っている。斯道会は、機関誌『斯道』をはじめとする図書・雑誌の頒布、講演会などの活動によって教育勅語の趣旨に添う道徳を推奨していた。同会は、日露戦争後、社会の風紀が乱れたことを憂えて明治45年に組織され、協賛員には山県有朋、大木遠吉、顧問には松方正義、大隈重信、渋沢栄一など各界の著名人が在籍していた。対外的な活動の他、特徴的なのは「日常の起居動作に斯道会の趣旨を体現」しなければならないと、会員に修養の実践を課している点である(例えば、日々少なくとも1回善事を行う、約束を守る、早起きをする、怒りを抑制するなど)。大正2年の末には、全国に31万人余りの会員がいた。廣池は発起当初から関わっており、井上頼国、新渡戸稲造らとともに、同会の講師を担当している。

NO.81 労働問題への更なる取り組み 大正7年(1918)【52歳】

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明治43年頃から、廣池は当時社会問題となっていた労働問題の解決に取り組むようになった。廣池の取り組みは、現代的に言えば、経営者と従業員両方に道徳教育の機会を提供して、双方の対立を解消し、調和をはかるものであった(NO.66)。

大正5年からは一層力注ぎ、それまでの富士瓦斯紡績、東洋紡績、三越呉服店に加え、日本海員掖済会、工業教育会などで何度も講演や指導を行った。大正7年には『富豪・資本家・会社商店の経営者・重役・高級職員各位并に官憲に稟告』※を発表している。本書にはモラル・サイエンス(のちのモラロジー)に基づく労働問題の解決方法と、その根幹をなす道徳教育の一端が示されている。

 

※は『廣池博士全集』④、『道経一体経営原論』に所収。

NO.80 全国での講演活動   大正5年(1916) 【50歳】

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廣池は明治後半から大正時代にかけてたびたび講演を行っている。大正5年頃からは一層その機会が増え、全国を遊説し、時局講演を行った。日数にして千日以上、参加者は延べ数十万人に達したという。内容は、神道・国民道徳・労働問題※など、多様であった。

また一般を対象としたものだけでなく、斯道会(国民道徳を推進するために設立された機関)などの活動を通じて、政治家や財界人、軍人に対する講演の機会も少なくなかった。

 

※講演テーマは「幸福と道徳」「人類の幸福と現代思想の欠陥」「国家主義・帝国主義と人道主義・個人主義の関係」「労働問題の新解決法」「近世思想近世文明の由来と将来」などであった。

NO.79『日本憲法淵源論』の発行 大正5年(1916)【50歳】

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11月発行。本書の目的は、第一次世界大戦後の社会情勢の善導、特に社会主義・民主主義などの外来思想による人心の混乱を救治することにあった。

廣池はまず法律研究の専門家という立場から、各国の憲法の内容や制定の淵源はその国民性に基づくと述べ、明治の立憲体制の成立を学術的に説こうとした。その上で、明治憲法の理念は“慈悲寛大自己反省”(NO.78参照)の精神に淵源すると述べている。国家の法律・教育などは、すべてその国柄や慣習を踏まえたものでなければ実効性がないとする廣池は、日本人の思想善導は憲法の根底に流れる“慈悲寛大自己反省”の精神によって行うべきであると主張した。このような点で本書は単なる憲法論ではなく、道徳教育論の書と言える。

​画像は『日本憲法淵源論』。(現在は『廣池博士全集』④に所収)

NO.78『伊勢神宮と我国体』の発行 大正4年(1915)【49歳】

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『伊勢神宮』(明治41年発行)に「神宮中心国体論」という22頁の小論文を加え、改題して出版したのが本書『伊勢神宮と我国体』である。これまで廣池は、皇室の家系が途切れることなく続く理由を皇祖神天照大神の高い道徳性と、それを継承した歴代天皇の道徳実践にあると説明していた。本書ではその理由についてさらに深め、天照大神が、天(あま)の岩戸籠(ごも)りの際に発揮した「慈悲寛大自己反省」の精神にあると述べた。本文129頁。

 

画像は『伊勢神宮と我国体』。(『廣池博士全集』④所収)

NO.77 『隠居論』の書評とその影響  大正4年(1915) 【49歳】

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6月25日・26日の読売新聞に『隠居論』という書籍の、廣池による書評が掲載されている。著者は穂積陳重。この年に第二版(初版は明治24年)が刊行された。廣池はこの改訂に協力している。書評には次のようにある。“世界における文明の進歩・人類の発展及び幸福の歴史は、決して個人主義もしくは自由主義のごとき単純なる主義もしくは思想の伝播《でんぱ》のみによらず、実に複雑な人類生活の基礎をなす人間道徳心の向上と、これに伴う社会組織の発達にある”(読みやすいように一部を現代文に直した)。文明の進歩、人類の発展・幸福は、主義思想の広がりだけでは達成せず、“道徳心の向上”が欠かせないという主張に注目している。“道徳心の向上” “道徳の進歩”などは当時から廣池が盛んに主張したことの1つであり、のちの著作でも論じられている。これらを踏まえると、廣池は改訂作業を手伝うことで恩師の主張に触発され、“道徳心の向上”という観点に確信をもったと考えられる。師の影響は、専門学だけでなく道徳の研究にも、多分にあったのである。

NO.76『東洋法制史本論』の発行 大正4年(1915)【49歳】

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3月、廣池は学位論文をまとめた『東洋法制史本論』を刊行した。本書は3部構成である。第一部は「支那古代親族法の研究」、第二部は「韓国親族法における親等制度の研究」、第三部は「支那喪服制度の研究」である。第一部は学位論文のうち主論文として提出したもので、古代中国の親族法について「親族」という字の意義から詳細に説いた。第二部は韓国親族法の特徴を示し、穂積や韓国法典調査委員長に高く評価された。第三部は周の時代の喪服制度をテーマとしたものである(第二、三部は副論文として提出)。

廣池には東洋法制史について発表していない壮大な構想があったが、専門学による著書は本書で最後となった。道徳の研究にそれ以上の価値を見出し、使命感をもって取り組むようになったためである。

 

画像は『東洋法制史本論』。(現在は『廣池博士全集』③に所収)

NO.75 帰一協会 大正2年(1913) 【47歳】 

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大正年間における廣池の活動の特徴として、多くの講演が挙げられる。この年の代表的なものの1つが帰一協会※における発表であった。日本社会の思想善導を目標としたこの会は、月例で会員を中心に講演会を行っていた。外部講師として招かれた廣池は大正2年10月に登壇している。発表内容は、東洋法制史と神道の研究で培われた知見を柱とする義務先行説であった。その主旨は「真性の権利、自由、威厳などは、自ら主張して得られるものではなく、他より与えられるもの」というものであった。渋沢栄一、成瀬仁蔵(日本女子大学校校長)、阪谷芳郎(東京市市長)、筧克彦、浮田和民(うきたかずたみ)(法学博士)などが聴講した。廣池の主張は多くの賛同を得られ、特に渋沢が強く興味を持ったという。義務先行説は、のちにモラロジーにおける主要な理論の1つとなった。

※帰一(きいつ)協会は、外来の思想や主義の影響で混沌とする日本の思想界を憂いて“堅実な思潮を作って一国の文明に貢献する”ことを目的に結成された組織である。主な活動は、思想や宗教に関して研究・討議するための講演と出版であった。「帰一」の由来は“あらゆるものは1つに帰する”。渋沢栄一を会長とし、服部宇之吉・姉崎正治・成瀬仁蔵など、日本の経済界あるいは教育界で活躍する人士がメンバーであった。

NO.74 学位授与の祝賀会と廣池の論文の評価 大正2年(1913) 【47歳】

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4月28日、廣池の学位授与祝賀会が催された。場所は上野精養軒。廣池は謝恩のため、穂積陳重、井上頼国などの恩師をはじめ、交流の長い学者仲間や友人たちを招いている。代表として穂積が祝いのスピーチをした。その中で、廣池の論文とその審査の概略について、次のように述べている。“この論文は、博士論文としては今までにないほど大部なもので、考証が精密で着実な議論がなされています。(ここから感じられる)ひたむきな研究態度が、審査委員に評価されたようです。さらに教授会の投票は全部白票でした。これは学界未曾有の好成績で、学者としてこのうえないことです。しかも法科における論文通過は、従来すでに難事中の難事で、同じ学位でも非常に尊いことと思われます” (要約)。

NO.73 妻の「内助の功」を称える 大正元年【46歳】

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現在で言えば義務教育修了程度の学歴しかない廣池が博士号を取得したことは、世間を騒がすには十分なほど大ニュースであった。報道陣が廣池のもとに押しかけた。廣池は読売新聞(12月11日付)で、妻春子に感謝の気持ちを述べている。“私が今日あるをえたのは先輩の指導によることはもちろんであるが、また実に妻の内助のおかげである。私は先輩に感謝するとともにより深い敬意をもって妻に感謝する”と。

「良妻賢母」が理想の女性像とされていた当時、廣池の成功と春子の献身ぶりは美談として新聞各紙で取り上げられた。読売新聞(同上)では春子の経歴とともに「模範的夫人」として紹介している。また、「私が博士になったのは妻のおかげ」という廣池の文章が『婦人世界』(大正2年2月号)に掲載された。その中でも、育児も含めた家庭内のことを一切取り仕切り、自分の時間を犠牲にして尽くしてくれた春子の具体的なエピソードを紹介しながら、感謝の気持ちを綴っている。廣池の学問上の栄誉は、妻春子の献身の成果でもあったと言える。

​画像は『婦人世界』(大正2年2月号)の記事

NO.72 法学博士の学位を授与される 大正元年【46歳】

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12月7日、病に苦しむ廣池のもとに博士号授与の知らせが届いた。明治43年に提出した論文※が、およそ2年間に及ぶ審査を経て、認定された。同月10日、廣池は法学博士の学位を取得。日本において135番目の法学博士であった。同月12日付の『官報』では、廣池の論文の概要と評価が掲載された。その中で中国法制史という学問分野を「未墾の原野」に例え、“大量の古典を読破し、その知識を近代法律学の手法をもって”まとめた学位論文を“広漠なる原野の一部を初めて開拓したもの”と評した。そして“前人未到の領域を開拓”し、“学界の進歩に大いに貢献した” として、“本論文の著者は法学博士の学位を授けるのに適当な学力があるものと認める”と記されている。

若いころから、独学で地道に積み重ねてきた研究が認められた。

※学位論文の提出についてはNO.67をご覧ください。

画像は廣池の「学位記」

NO.71 大正元年の大患②  大正元年【46歳】

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生死の境をさまようような状態の中で廣池は、ある決意をする。「私に一年の生命を貸してくださるならば、私は人心救済に関する世界諸聖人の真の教訓に基づく前人未到の真理を書き遺しておきましょう。もし、またさらにこれより長い生命をお貸しくださるならば、(中略)全人類の安心、幸福及び人類社会永遠の平和の実現に努力させていただく所存です」と。生きているかぎり、自分の力を人類社会に尽くすというものであった。これに加え、廣池はこれまでの生き方を根本的に省みた。これらにより精神が病に勝ったのか、徐々に快方へと向かう。廣池はのちに、この大病を「大正元年の大患(たいかん)」と呼び、この時の誓いが「モラロジー建設の目的を確立し」「具体的にその準備を」する機会となったと述べている。

NO.70  大正元年の大患① 大正元年【46歳】

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廣池は大正元年9月頃から体調を崩す。長年にわたる極端な研究生活が原因であった。明治37年頃にも深刻な体調不良を起こし、万一を覚悟したこともあったが、このときは快復している。そうして『古事類苑』編修員の業務を全うし、その後皇学館の教授として学生の指導にあたりながら、中国への調査旅行など自身の研究にも没頭した。しかし、過度な研究生活を続けていたため、再び病の身となってしまった。9月にひいた風邪が悪化し、ついに11月には入院したが、快方に向かうことなく、12月には「ただ死を待つほかなかった」というような重篤な状態となった。

NO.69 『我国体の精華』を発行する 明治45年(大正元年)【46歳】

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明治45年7月30日、天皇が崩御し、大正時代が始まった。廣池は『我国体の精華』という小冊子を書き上げ、大喪(天皇の国葬)の翌々日9月15日に発行している。諸言によれば“本書は明治天皇御大喪の記念として我国体の精華、道徳の淵源について、謹んで意見を述べたもの”で、“専門である法律学とは別の分野ではあるが、教育に資する1つの資料として著した”としている。皇学館の学生を中心に関係者へ配布した。本文6頁の本書は、第一章 敬神尊祖の国風、第二章列聖慈悲の宏謨(こうぼ)、第三章 国民公私道徳の本義、という構成となっている。

NO.68 皇学館の修学旅行に引率 明治44年(1911)【45歳】

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明治44年10月下旬、廣池は皇学館の学生を連れ、関東へ修学旅行に出かけた。栃木県今市市の報徳二宮神社、日光市の日光東照宮などを訪問している。見学地における解説者は、引率の廣池であった。境内を散策しながら聞く、歴史に詳しい廣池の説明は、学生たちにとって大変刺激になったと想像できる。廣池の解説は史実をなぞるだけではなく、教育的な訓示もあった。例えば、東照宮では、一本だけが逆さに模様が彫られている陽明門の柱に「満つれば闕(か)くる」という戒めがあることを紹介している。

東京帝国大学訪問時には、憲法学の権威である穂積八束(やつか)教授の講義を学生に聴講させている。八束は、廣池の恩師穂積陳重の弟である。皇学館で憲法の講義を担当していた廣池は、八束の皇室を中心とした憲法解釈と論調を参考とし、日ごろから尊敬していた。

NO.67 学位論文を提出する  明治43年(1910) 【44歳】

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明治35年ごろ廣池は、『支那文典』による学位取得を試みたが、うまくいかなかった。その後、東洋法制史の研究で学位を取ることに方針を転換し、恩師の穂積陳重も勧めてくれた。明治39年の暮れ、法理研究会の帰り道、穂積から再度博士論文の提出を促され、本格的に取り組み始めた。廣池はこれまでの法制史研究や清国への学術調査旅行の成果を、古代中国における親族法の研究にまとめ、明治43年11月学位論文として東京帝国大学に提出した。

当時の日本の学位は、①帝国大学大学院の試験に合格する、②論文を提出して学力を認められる、③博士会で学力を認められる、のいずれかを経て文部大臣が授与するもので、現在とは比べものにならないくらいの価値と権威があった。

NO.66 労働問題の解決に取り組み始める  明治43年(1910) 【44歳】

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明治43年頃から、廣池は当時社会問題となっていた労働問題の解決に取り組むようになった。当時主流だった労働者の権利意識を高め、経営者への対抗意識をあおるような方法ではなく、労資双方の道徳的意識を高め、和解と協調による穏健な解決方法を提示した。廣池は、「予は会社の味方にして、同時に真に労働者の味方なり。今日、ただ一方だけを利せんとするものは道徳にあらず。競争を教唆するものなり」と述べている。

具体的には、富士瓦斯紡績の小山工場を始め、東洋紡績や三越呉服などに足を運び、とくに小山工場は同郷の先輩和田豊治と面識があったことなどから、大正末年までに20回以上も訪れている。この労働問題を道徳的に解決しようという試みは、道徳科学の理論を実践する格好の機会となった。

NO.65 『伊勢神宮』の執筆 明治41年(1908) 【42歳】

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伊勢の神宮について近代的な視点で書かれた本は、廣池による著述まで存在しなかった。神宮司庁などの公的機関が神宮に関する書籍発行の準備をしていたが、その編纂はなかなか進まなかったようである。そのため国民が最も重要な神社について知ることができないというような状況であった。そこで、神宮皇学館の教授であり、日本の歴史に通じ、神道にも造詣が深い廣池に執筆を勧める声がかかる。廣池にも“近代的な視点から神宮と国柄について説くことは教育上大切”という思いがあり、意欲的に筆を執った。

『伊勢神宮』は、東洋法制史を専門とする立場から、法律的、社会学的、歴史学的考察をもって神宮と皇室並びに日本の国柄との関係について解説した本である。神宮の歴史、日本人と中国人の崇拝対象の違い、天照大神と祖先崇拝などを述べ、更に皇室の万世一系の原因に関しては、天照大神の高い道徳性と、それを継承し実行した歴代天皇の精神性にあると発表した。※本書の発行部数、社会的な影響などについてはリンク先を参照。

 

画像は『伊勢神宮』の私家版。本書は現在『廣池博士全集』4巻に『伊勢神宮と我国体』として収録されている。

NO.64 学術調査旅行②  明治41年(1908) 【42歳】

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廣池は調査旅行によって、文献的な研究から得ていた東洋法制史の知識を細部にわたって裏付けることができた。専門学に関することの他に、思わぬ収穫があった。北京の孔子廟を訪問した際、孔子の子孫やその高弟顔回の家系が存続し、人々から尊敬されている事実を目の当たりにしたことである。廣池は、優れた道徳性と家系の永続性の関係に注目した。これを傍証として、日本の皇室の万世一系(1つの家系が永く続くこと)の原因がその道徳性にあるという論を立てた。この主張は帰国後に著した『伊勢神宮』で発表されている。このような意味で、学術調査旅行の成果の1つは『伊勢神宮』の発刊であった

NO.63 学術調査旅行①  明治41年(1908) 【42歳】

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明治41年、廣池は東洋法制史の学術調査のために清国と韓国を約40日間旅行した。皇学館の春休みを利用したこの旅行は、北京の公使館に駐在していた従兄弟の阿部守太郎一等書記官(後の外務省政務局長)の協力もあって実現した。

文献的な研究がひと段落した廣池にとって、実地調査は構築した理論を確かめるために欠かせないものだった。主な目的は、憲法や刑法、民法などの疑問点の解明と中国における文字教育の視察であった。廣池は現地で阿部守太郎をはじめ学者仲間らの協力によって調査をしつつ、訪問各所で盛大に歓迎された。このことは現地の新聞や雑誌にも取り上げられている。北京では、清国の法律を研究する機関において講演する機会もあった(学術調査旅行②に続く)。

NO.62 神宮皇学館の教授に就任  明治40年(1907) 【41歳】

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明治40年、廣池は三重県にある神宮皇学館(現在の皇学館大学)の教授に就任した。皇学館から要請があったことに加え、師の穂積陳重からの任官を勧めるアドバイスもあり、赴任を決めた。

受け持った講義は「古代法制」「東洋家族制度」「国史」「歴史研究法」などで、専門の法制史のほか歴史が多かった。廣池の講義は学生から好評で、廣池も自らの著作を用いて精力的に講じた。赴任2年目には、『古事類苑』編纂時に培った神祇や宗教に関する知見が見込まれ、「神道史」の講義を任されている。こうして廣池の研究領域は広がっていった。

NO.61 法制史研究の展望とその基礎的な研究 明治39年(1906) 【40歳】

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戦後になって発見され、出版に到った廣池の研究に『倭漢比較律疏(わかんひかくりっそ)』『大唐六典(だいとうりくてん)』がある。『倭漢比較律疏』は日本の大宝令と中国の法律を比較研究したもの。『大唐六典』については、近衛本『大唐六典』全巻にわたって句読訓点・注記などを書入れ、より読みやすくしたもの。これら2書の研究は、発見当時すでに後人の手によって東洋法制史における基礎文献となっていたが、廣池が取り組んだ時期は非常に早く、また優れた業績であった。明治に発表されていれば、廣池の学者としての評価は格段に高まっていたと言われている。

廣池が公表しなかったことには、のちに関心が他に移ったこともあるが、“東洋法制史研究の大系化”という壮大な構想があったからでもある。草稿として残る「東洋法制史総論」「日本法制史大宝令の研究」などの出発点に、『倭漢比較律疏』『大唐六典』の研究が存在した。

NO.60 画期的な文法書『支那文典』の発行 明治38年(1905) 【39歳】

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廣池は漢学塾で学んでいた頃から “漢文も英文法のようなルールが整っていたら、どれだけ便利だろう”という考えを持っていた。そのような思いが根底にあり、専門学東洋法制史の基礎研究として資料を収集しつつ、整理しながら「支那文典」の原稿をまとめた。この研究が認められ、廣池は早稲田大学の講師に就任している(NO.56参照)。

『支那文典』は明治38年に大学の講義録として出版された。特徴はヨーロッパの語法を参考にして漢文を品詞に分け、その規則性を示している点にあり、また引例が多様で精確であることから、その学習しやすさが評判となった。そのため本書は昭和2年まで版を重ね、20年のロングセラーとなって広く読まれている。

NO.59 『日本文法てにをはの研究』の発行 明治39年(1906)【40歳】

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日本文法に関する研究書。廣池は本書の中で、より効率よく語学の学習ができるようにという教育的な目的から、日本文法の改良を主張した。具体的には日本語の「テニヲハ」を、文法で最も整備されている英文法の範疇に分類することを提案している。そうすれば学生は英文法・漢文法・国文法、それぞれの規則を別々に学ぶ必要が無くなるというのである。日本語の用法を他の言語と共通の品詞に再構成しようとする試みは、当時としては画期的ではあったが時代を先取りしたためか、学界では受け入れられなかった。

画像は『日本文法てにをはの研究』

NO.58 『東洋法制史序論』の発行 明治38年(1905)【39歳】

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本書は、廣池が初めて公表した専門学の研究成果である。「東洋に於ける法律と云ふ語の意義の研究」という副題のとおり、廣池は「法律」という言葉の意味を、歴史をさかのぼって説き明かした。日本と中国における語義の比較によって、日中の文化的な背景の違いを述べている。特に中国において「法律」の源は「中正・平均」という観念に行き着くという考えから、古代中国の道徳思想について論じている。独創的な主張は内外から高く評価され、廣池は学界から大いに注目を浴びた。東京帝国大学の戸水寛人(とみず ひろんど)教授は、「東洋の奇跡にして天下の奇書」と述べている。

​画像は『東洋法制史序論』

NO.57 穂積陳重の指導  明治35年(1902) 【36歳】

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明治35年頃から廣池は法律学の権威である穂積陳重(ほづみ のぶしげに師事した。京都で穂積の論文を読み、専門を歴史学から法律学に定めた廣池(NO.39参照)は上京後、紹介状を手に穂積を何度も訪ねた。しかし、穂積が多忙のため、なかなか面会はできなかった。ようやく叶った短時間の面会で、それまでの研究成果を認められ、今後の指導の確約を取り付けた。穂積は比較法学と歴史法学を実証的に取り組むよう促し、今後法律学の進歩には自然科学の観点と研究法が必要であるというような示唆も与えた。そのアドバイスに従い、廣池は法学の研究を深めつつ、帝大の医科・工科・農科などの研究室にも顔を出して知識を蓄えた。この時代に培った自然科学の知見は、後に道徳の学術的な研究に活かされる。

​写真は穂積陳重。

NO.56 早稲田大学と廣池 明治35年(1902) 【36歳】

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明治35年に廣池は早稲田大学の校外講師を委嘱され、「支那文典」の講義を担当した。廣池は専門学「東洋法制史」の基礎研究として漢文法の研究に取り組んでいた。大量の文献を読み込み、精確に整理して形となったものが「支那文典」であった。講師に抜擢されたきっかけは、中国古典を学術的に説ける人材を探していた同大の担当者に、この研究が評価されたことによる。同38年に廣池は専任講師に昇格し、日本で初めて「東洋法制史」を講じている。同43年に辞職するまでに、早稲田大学を通じて古典文法や東洋法制史などの研究成果を発表することができた。後に廣池は「早稲田大学は私の学問上の恩人であり、私の学問上の慈母である。また学問上第二の故郷ともいえる。」と述べている。

NO.55 変わらない親孝行  明治35年(1902) 【36歳】

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廣池の篤い孝心は東京に出てからも変わることはなかった。珍しい菓子が手に入ると子どもには与えず、郷里の両親へ送った。子どもは将来食べる機会はあるが、自分たちより余生が短い親はそうはいかない、というような思いからであった。

明治35年、廣池は郷里から両親を招き、東京見物や善光寺参りなどをしてもらった。両親は旅行というプレゼントを満喫して帰省した。両親の上京から、3年後に母・りえは65歳で亡くなるが、廣池は東京見物をしてもらっていたことで母に対する孝養に悔いが残らなかったと語っている

NO.54 『高等女学読本』の編纂  明治33年(1900)【34歳】

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明治32年に高等女学校令が発布されると、実践女学校や女子英学塾(現 津田塾大学)、日本女子大学校などの女学校が開学した。こうした社会の動きに応じて、廣池は『古事類苑』編修メンバーの協力のもと、女学校用の教材を作成している。

同33年発行の『高等女学読本』(華族女学校長 細川潤次郎 校閲)は国語や道徳教育のための講読用テキストである。文体は読みやすく理解しやすいよう現代文を採用し、内容は女性として大切にすべき徳目や生活に役立つ教養など幅広く取り上げている。教員時代から女子教育に関心が高かった廣池は、実学尊重の立場で本書を編纂した。この他、『女流文学叢書』(明治34年)を『古事類苑』の同僚との共同編修で刊行し、翌年には『高等女学読本参考書』を編纂している。

​画像は『高等女学読本』

NO.53 編修長 佐藤誠実と廣池

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編修員の給与は原稿用紙1枚60銭の歩合制であったため、納めた原稿の枚数が多いほど増えた。廣池は京都で経済的に苦労したこともあり、効率よく原稿を書き上げた。しかし、速成した原稿は、徹底的に質を重視する佐藤誠実(じょうじつ)編修長の検閲をなかなか通過しなかった。廣池は、状況を見かねた井上頼国に原稿の粗製を注意され、気持ちがお金にいっていたと反省した。このことを佐藤に謝ると「良いところに気づいてくださった。どうか一生懸命やってください」と言われ、今まで書いた原稿を全て返してもらった。修正して再提出すると、検閲は全て通過した。

​画像は佐藤誠実(明治40年)

NO.52 猛烈な学究生活──新聞で紹介される  明治33年(1900) 【34歳】

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廣池は、他の編修員よりも非常に多くの原稿を執筆した。加えて古典文法と東洋法制史の研究を併行していたため、猛烈な学究生活であった。廣池の多読ぶりは、当時の新聞にも紹介されるほどで、東京帝国図書館で蔵書をほぼすべて閲覧したので「図書館博士」と言われたとか、「上野の図書館の書物をほとんど閲覧した人がいる。それは廣池千九郎大人(うし)という人だ」(『万朝報』)などと報じられた。 

 

画像は、文中における「上野の図書館」(現 国際子ども図書館)。

No.51 廣池の号について

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明治30年、廣池は「鵬南」(ほうなん)という号で『在原業平』を著した。本書は平安時代の貴族で歌人であった在原業平の伝記である。「鵬南」とは、天空万里にはばたく神なる鳥を意味する。これには、世界を駆けめぐろうというスケールの大きな志と、気概が込められている。

廣池は生涯にわたってさまざまな号を使った。青年時代には、中津地方の別名である「扇城」、『史学普及雑誌』では、関西方面での史学の中心的存在であろうと「西海」などを用いた。大正期には、ソクラテスに対する敬愛の念を示す「蘇哲」を使った。また、「幹堂」(かんどう)という号も使っている。天地の根幹、宇宙の堂守という意味で、世界の平和の使徒となろうという意志の表明である。 

No.50 雲照律師に仏教を学ぶ  明治30年(1897) 【31歳】

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上京した廣池は明治期の名僧、雲照(うんしょう)律師を訪ね、仏教について学んでいる。京都在住の頃から仏教に関心を持ち、『古事類苑』編纂を進める上でも、仏教についての理解が必要だと感じていた。律師は、神道・儒教・仏教の思想に一貫する真理をもって国民を教育することを考えていた。廣池は律師の人格を敬慕するだけでなく、思想にも共鳴していた。後年、廣池はモラル・サイエンスの研究の中で世界の諸聖人の思想の比較を試みるが、この姿勢は律師に相通じるものがある。

​画像は雲照律師

No.49 編纂事業参画の意義  明治29年(1896) 【30歳】

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廣池にとって『古事類苑』編纂事業に参画した意義は大きかった。まず、専門学に対する実力を養成する機会となった。多くの文献を読み込み、原稿の執筆と編纂によって、研究手段を徹底的に磨いた。手掛けた原稿のメモには「法制史へ」「皇室史へ」などという書き込みがある。専門学の研究に有益な情報を収集し、仕事と同時にその進捗をはかった。次に、経済的に安定したことである。多額の原稿料は図書や資料の購入にあてられ、研究がさらに進展した。そして、師や多くの同僚との出会いがあった。この交流は廣池の学究生活に指針を示し、後の生き方に影響を与える機会となったのである。

No.48 編纂員の仕事 廣池の貢献

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『古事類苑』は日本の古代から幕末に及ぶあらゆる書籍、図画、古文書などから、主要なものをすべて原文のまま写し取り、これを分類整理して、それぞれの事項の由来、使用例などを明らかにしている。本書は、現在でも日本の歴史・文化を研究する上で基礎的文献として利用されている。

廣池は帝国図書館、東京帝国大学図書館、宮内省図書(ずしょ)寮などに通いつめ、多くの書籍を読破して筆を執った。その仕事ぶりは同僚も認めるところで、1日数十枚の原稿を作成するほどの勢いであった。廣池は30部門のうち「政治部」「宗教部」「文学部」「方技部」「外交部」「神祇部」などを中心に担当し、全巻の4分の1以上を編纂するという業績を残した。

NO.47 『古事類苑』の編纂員

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『古事類苑』とは、全部で1,000巻、和装本で355冊、洋装本では51冊になる日本最大の百科史料事典である。編纂は明治12年に明治政府の主導で始められ、明治40年に完成した(発行は大正3年)。

明治28年より編修員に就いた廣池は、約13年間にわたってこの国家的事業に貢献している。当時の編修顧問兼校勘は井上頼国、編修長は佐藤誠実(じょうじつ)であった。廣池は2人の指導のもと、業務を通じ、学者としての見識を高めるだけでなく、人間的にも成長する機会を得る。

画像は『古亊類苑』(和装本)。

NO.46 『史学普及雑誌』の廃刊と上京  明治28年(1895) 【29歳】

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『史学普及雑誌』第8号からは、経費節減のために印刷会社を変更した。以後も、改良を加え、特に第24号からは大改革を行って誌面を一新しようとしたが、ついに時勢には勝てず、明治26年12月には1ヶ月休刊とした。日清の緊張が高まった明治27年4月以降、史学ブームは急速に去り、有力な歴史雑誌が相次いで廃刊に追い込まれた。そして『史学普及雑誌』も第27号を最後に廃刊のやむなきに至った。経営の逼迫もあったが、直接の原因は、廣池が『古事類苑』の編纂のために東京に出たことにある。残務整理を終えた廣池は明治28年5月7日に単身で上京している。

NO.45 観光案内ガイドブックの発行  明治28年(1895) 【29歳】

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京都における廣池のユニークな活動に『京名所写真図絵』『歴史美術名勝古跡京都案内記』という観光案内ガイドブックの制作がある。この制作は、観光客の便宜をはかって京都市が計画し、廣池が作成したものである。これらには、廣池の純粋な歴史家としての立場が示されている。たとえば、市内を観光する際には「高等の案内者(歴史家として的確な知見を持つ研究者)」を求めなければならないと述べ、廣池自らそれに任じようとしている。 

NO.44 両親を招いて京都見物  明治28年(1895) 【29歳】  

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廣池の道徳の核心のひとつに「孝は百行の本なり」がある。「親孝行は全ての行いの基本」という意味で、廣池はこれを母 りえ からよく聞かされて育った。廣池はこの家訓を常に念頭におき、苦しい中でも実践を怠らなかった。珍しい菓子が手に入れば子には与えず、郷里の両親に送ったという。

廣池は『平安通志』の原稿料や寺誌の編纂、古文書の整理の謝礼でまとまった収入があったので生活費などの滞納金を返済し、両親を京都見物に招いた。 両親は2週間ほど滞在し、本願寺詣りや名所旧跡めぐりを満喫した。その間に廣池に『古事類苑』編修員の辞令が届き、一層満足して帰郷したという。

NO.43 井上頼国との初対面──『古事類苑』編纂員の抜擢  明治27年(1894) 【28歳】

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廣池の元に、国学者井上頼国(いのうえ よりくに)が尋ねてきた。廣池は、中津在住のころから文通によって井上に私淑していた。数時間の論談の末、上京して法制史の研究を大成したい意向を打ち明けた。『中津歴史』『皇室野史』等の著述や『史学普及雑誌』で廣池に注目していた井上は、その意欲と学力を見込んで『古事類苑』の編纂員に推挙した。『古事類苑』とは、明治年間から大正にかけて編纂された、わが国最大の百科史料事典である。この国家的なプロジェクトに廣池は抜擢されたのである。

画像は井上頼国。

NO.42 京都で取り組んだ仕事  明治27年(1894) 【28歳】

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廣池は京都において、『史学普及雑誌』の出版と『皇室野史』『日本史学新説』などの著述のほか、観光案内書『京華要誌』の編纂、醍醐寺三宝院の寺誌編纂や比叡山延暦寺の古文書の整理などにたずさわっている。中でも、京都の歴史を記す『平安通志』は歴史的価値が高く、この編纂に関わった意義は大きい。

明治28年は平安遷都からちょうど1100年になるので、平安神宮の創建・博覧会の開催など、この時を期して盛大な祝祭典の行事を催すことになった。これらの事業の一環として『平安通志』の編纂が企画され、官民の歴史家が多数動員された。その1人である廣池は集中して記事の執筆に取りかかった。

​画像は『平安通史』

NO.41 住吉神社の誓い  明治27年(1894) 【28歳】

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明治27年の前半は、清国との対立で、国内は騒然としていた。そのため、売れ行きが悪くなっていた『史学普及雑誌』は、さらに困難に陥っていった。同年7月、廣池は販路拡大のため、炎天下の中、風呂敷に包んだ雑誌を担いで大阪に出向いたが、思うように売れなかった。その帰りに住吉神社(現、住吉大社)の境内で休んでいると、近くの料亭からどんちゃん騒ぎが聞こえてきた。廣池は、昼間から宴に興じる人々と、世のために努力するも報われない自分の状況を比べて、「世の中どこかおかしい」と憤りを覚えた。しかし心を正して住吉神社に参拝し、一層努力する誓いを立てた。

帰宅すると、誓いの効験が現れたかのように、京都市参事会から『平安通志』編纂協力の依頼が来ていた。この仕事の報酬は、貧苦の生活が一転するほどの額であった。

 

※画像は日記ある誓い(直筆)。内容は「一 国のため、天子のためには生命を失うも厭わず。二親孝心。三 嘘を言わず、正直を旨とす。四 人を愛す。第五 住吉神社のご恩を忘れず参拝」

NO.40 廣池の研究姿勢と正倉院の拝観 明治26年(1893) 【27歳】

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廣池は研究において実地調査を重んじている。例えば、南朝の事跡を調査するために、京都付近から畿内一体、紀州までも事跡を探った。研究に対するこのような姿勢は終生変わらなかった。

明治26年の8月に廣池は正倉院の御物を拝観する許可を得た。当時、正倉院の拝観は高位高官もしくは著名な専門家しか許されなかった。このときの記録は『史学普及雑誌』の紙面に活かされている。

NO.39 歴史から法制史研究へ……  明治26年(1893) 【27歳】

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研究を進める中で見識を高めていった廣池は、関心を歴史学から法学へと広げた。歴史よりも法律のほうが社会に貢献できるとの考えであった。そして明治26年の夏に読んだ法学博士穂積陳重(ほづみ のぶしげ)の論文がきっかけで、廣池は東洋法制史の研究を専門とすることを決めた。この論文によって、中国法体系の研究が未開拓であると感じ、また得意の漢学が活かせると思ったからである。経済的に困窮していた状況であったが、専門書を購入して研究にとりかかった。

NO.38 史実に基づく皇室研究 明治26年(1893)【27歳】

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廣池は、明治26年に『皇室野史』を発行した。当時、史実に基づいて皇室を研究した書物はほとんどなかった。ことに武家政権時代における皇室の実状を説いたものは皆無であった。このことから廣池は、武家時代の皇室に焦点を当て、皇室と国民との関係を実証的な研究によって明らかにしようとした。神社、仏閣、旧家などに出入りして未公開の古文書を調査し、富岡鉄斎の所蔵する豊富な書籍を渉猟してこの書を完成させた。『皇室野史』に対する書評は、多くの雑誌や新聞に取り上げられ、おおむね好意的に迎えられた。

NO.37 このころの交流関係  明治26年(1893) 【27歳】

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京都において廣池は、雑誌編集や著述を通して人物交流を広げている。その中で最も影響を受けたのが、文人画家富岡鉄斎(とみおか てっさい)である。出会った当時、鉄斎は57歳、廣池は27歳であった。廣池と鉄斎は家族ぐるみで交流を交わした。鉄斎は蔵書家としても著名で、古書の収集家でもあった。自分の蔵書をなかなか他人に見せない人であったが、廣池には、写生旅行中1ヶ月余りの留守番を頼み、その間、蔵書の閲覧を許している。よほど廣池への信頼が厚かったのであろう。

このほか京都で廣池は、『広辞林』『小辞林』の編者として知られている言語学者の金沢庄三郎(かなざわ しょうざぶろう)や、六角博通(ろっかく ひろみち)子爵らと交流を持っている。六角は幕末・明治の有職家であり、本草学者としても名高く、宮殿研究の専門家であった。廣池は、六角に国史研究の指導を受け、蔵書を見せてもらう間柄になった。

画像は富岡鉄斎。

NO.36 京都における生活  明治26年(1893) 【27歳】

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廣池の人生において、京都にいた頃が最も経済的に苦しかった時期である。明治26年2月に長男千英(ちぶさ)が生まれた。明治27年ごろには、生活苦のために転居せざるを得なくなり、六畳一間での生活となった。廣池は執筆と編集に努め、春子は家事に加え、原稿の清書、雑誌の発送も手伝った。

貧苦の中でも、廣池の研究心は衰えることがなかった。毎朝5時に起き、夜12時まで勉強した。このころ歴史だけでなく、法律や国学の研究、英語やドイツ語の学習にも取り組んでいた。

NO.35 歴史に関する著述 明治25年(1892) 【26歳】

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毎月の『史学普及雑誌』刊行に加え、廣池は京都在住中に次々と著作を出版した。『日本史学新説』『史学俗説弁』『新説日本史談』などである。『日本史学新説』は、明治時代の歴史学者が従来の見解の誤りを指摘している新説を集めたもの。『史学俗説弁』では、歴代天皇についての史説の誤りを指摘している。『新説日本史談』は青少年向けの通俗書というべきものである。扱われている人物は、豊臣秀吉、山田長政、石川五右衛門などで、読者の興味をそそるものを取り上げ、時に道徳的教訓をまじえている。 

NO.34 掲載内容から知る「廣池の歴史観」  明治25年(1892) 【26歳】

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『史学普及雑誌』を通じて、当時における廣池の歴史観、人物観を知ることができる。例えば、新井白石をとりあげ、『大日本史』を編纂した徳川光圀(みつくに)の精神と、『日本外史』を著した頼山陽(らいさんよう)に匹敵する漢文の素養を持っているとした。さらに、国語、地理、経済、有職、制度等の諸学に通じ、わが国の歴史を進歩させたと絶賛している。本居宣長(もとおり のりなが)については、日本の国柄を研究し、それを天下後世に説明した人物であり、国学の真精神は宣長にあると評している。

NO.33 月刊誌『史学普及雑誌』の発行 明治25年(1892) 【26歳】

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京都に到着した廣池は直ちに『史学普及雑誌』の発行にとりかかった。当時、史論が流行し、新しい史学雑誌や歴史関連の書籍が次々に発刊された。廣池も研究と生活の両方を支える手段として、中津にいたときから、本誌の発行を企画し準備を進めていた。「歴史には一定の法則がある」と考えていた廣池は、その法則によって、読者の国民精神の高揚に資するというねらいがあった。本誌の中で廣池は「史論」「史談」を通して、自身の歴史観や人物観を展開した。一方、寄稿論文で構成される「客説」では、多くの歴史学者、国学者などの論説を掲載している。これらの寄稿者を見ると、廣池の交流範囲はかなり広かったようだ。 

 

画像は『史学普及雑誌』

NO.32 京都へ  明治25年(1892) 【26歳】

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廣池夫妻は、親族、教え子らに見送られ、中津港から海路京都へ向かった。廣池は、今こそ自分の力を試す時だと思いを強くした。歴史の研究とその成果によって、国民の精神を強固にしようと考えていた。歴史ある京都なら、資料や史跡も多く実地の調査もできるという考えであった。

NO.31『中津歴史』の成功と歴史家への転身  明治25年(1892) 【26歳】

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『中津歴史』の定価は1円。当時の物価からするとかなり高価であった。しかし、純利益が100円出たことから、かなり多くの人々に読まれたことが分かる。東京帝国大学歴史学教授重野安繹(しげの やすつぐ)は「記事は正確で細大もらさず、実に有益な著書である」と述べている。森鹿三(もり しかぞう、1906-1980、京都大学名誉)教授は「まさしく空前の、日本史研究における瞠目(どうもく)すべき先駆的業績である」と評価している。

本書の成功は、廣池が歴史家として自立する自信になり、京都へ進出する資金源にもなった。明治25年、廣池夫妻は中津をあとにして、京都に渡った。   

NO.30『中津歴史』の発行  明治24年(1891) 【25歳】

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明治24年、廣池は『中津歴史』を発行した。本書は当時としては珍しい地方史の書籍であり、廣池にとって初の学術書であった。廣池は本書の中で地方史研究の意義を2つ挙げている。身近な歴史を知らせることによって、地域に伝わる伝統的文化の重みとその継承への情熱を抱かせること。また、地方の歴史を確定することで国史(国民教育の根本資料)編纂に資すること。以上のような教育的な観点があって、本書はまとめられた。

廣池は、中津高等小学校にあった旧藩校の進修館の蔵書閲覧を皮切りに、地域の古老の元に足を運ぶなど、熱心に調査を行っている。資料集めに苦労した経験から、アーカイブズ(文書館)の必要性を日本で初めて主張したことも、本書の特徴の1つである。この時期、廣池は、寄宿舎の世話や教員互助会設立のための活動、結婚など、多忙を極め、体調も崩す時期もあった。そのような中でも、あしかけ5年をかけて本書を書き上げた。

画像は『中津歴史』

NO.29教員互助会の設立  明治23年(1890) 【24歳】

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形田小学校赴任直後の明治18年、廣池は大分県共立教育会の会員になっている。同会は、教育の普及、改良、向上をはかることを目的として創設されたもので、大分県教職員組合の前身であった。廣池は、ここを舞台に教育改革のために積極的に活動した。中でも特筆すべきは、教員互助会の設立に尽力したことである。明治初期の教員の報酬は低く、過労で早死にする人も出るなど、教員の労働条件は劣悪であった。そのため教員志望者は少なく、離職者も多かった。こうした状況を見かねた廣池は教員を定着させ、教育改善を図るために、教員互助会の設立を訴えた。廣池の物心両面の努力によって実を結び、大分県教員互助会は共立教育会の附帯事業として明治24年より開始された。当時、県単位で組織された教員対象の互助会はなく、全国に先駆けた存在であった。

​画像は「大分県教員互助会の主意書」

NO.28  大洪水や大火での災害救援活動  明治22年(1889) 【23歳】

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明治22年、下毛の周辺で大洪水が起こった。家屋田畑も流失し、大きな被害が出た。廣池は田舎新報社(地域の新聞社)の依頼を受けて、義捐金の募集に奔走した。

明治25年には廣池が居住していた金谷町の隣、宮永村で大火が生じ、死傷者が出る惨事となった。廣池は直ちに檄文を書き、救援活動に乗り出した。以下はその一部である。「大火のあとの無残な光景を見よ(中略)馬は死に、人は傷ついて重傷の者は10人に達し、瀕死の重傷を負った者も数名いる。雨霧にさらされ、飢餓に苦しむ者は実に300名を超えるという。(中略)皆さんが心血を注ぐべきところは、この焼失した村である。皆さんの涙を注ぐべき対象はこの焼失した村であると知ってほしい」。

以上のように、廣池は被災者に手を差し伸べることを常に心がけた。

画像は「宮永村大火の檄文」

NO.27 地域に貢献した人の顕彰  明治22年(1889) 【23歳】

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廣池は生涯を通じて社会貢献活動を行った。特に中津では、災害時の活動のほか、地域発展に貢献した人々を顕彰する活動が挙げられる。例えば、永添小学校時代の恩師である古野静枝(ふるの せいし)の碑を建設したことや、中津地方の養蚕業発展に貢献した西幸二郎を世間に知らせたことが挙げられる。中津の養蚕が盛んになったのは西の功労であると、廣池は著書『新編小学修身用書』や『中津歴史』に綴っている。また廣池は、生活に困窮していた西を、義捐金を募って救済し、そのことで下毛郡から表彰を受けている

NO.26 春子との結婚  明治22年(1889) 【23歳】

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明治22年7月、廣池は角春子(すみ はるこ)と結婚した。このとき廣池は23歳、春子18歳。廣池も春子も他の縁談は少なくなかったが、2人は互いに理想が適ったようだ。

角家は、江戸時代には上士(上層階級の武士)であった。明治になってから武士は「士族」となり、それまでの権益がなくなったことで、衰退する家が多くあった。角家も例外ではなかった。春子は家計を楽にしようと、家事の手伝いをしながら裁縫を習い、師の代稽古ができるほどに上達した。裁縫の腕前も、廣池家には好条件の1つであった。

廣池家は祖母、両親、弟妹5人という大家族であった。廣池は中津高等小学校の寄宿舎に寝泊りして週末に帰宅、春子は嫁ぐとすぐに家族の世話と農作業に追われるという日々を送った。武家の娘であった春子は慣れない農作業やしきたりの違いなどで、この頃いろいろと苦労したようだ。約1年半後、廣池夫妻は学校に近い金谷(かなや)町に新居を持った。生活は決して楽ではなかったが、2人は力を合わせて生活していく。

NO.25 『小学歴史歌』の発行  明治22年(1889) 【23歳】

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廣池は、明治22年に『小学歴史歌』を発行した。本書は歴史に関する最初の著述であり、神代から明治までの日本歴史の主要な出来事を小学生にも覚えやすいように七五調で記述したものである。緒言には、本書の意図として、「歴史は単に各時代の人物や社会のありさまを知るだけではなく、これによって先人の言行を反芻(はんすう)し、巨視的には国家を治め、微視的には一身を処する鏡となるものである」などと記されている。

NO.24 歴史への関心──旧藩校の進脩館の蔵書を読む 明治22年(1889) 【23歳】

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廣池は校務のかたわら、歴史研究を進めた。廣池は歴史研究の課題を、過去の事実をそのまま明らかにするだけでなく、そこから普遍的な法則を見いだすことにあるとしていた。そして、歴史的事実を長い尺度で考えていけば、人間の力ではいかんともしがたい「事実」、つまり「一定不動の法則」を見いだすことができると考えていた。

当時、廣池が勤務していた中津高等小学校には、旧藩校の進脩館の蔵書数千部が移管されていた。廣池の本格的な歴史研究は、この蔵書閲覧から始まったといっていいだろう。これは、廣池の学力をおおいに高め、自信を持たせることになった。このとき廣池は中津の郷土史を書くという目的を持っていた。 

NO.23 「問題児」の性向調査書を全国に発送  明治22年(1889) 【23歳】

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明治22年、廣池は『性質痴鈍及び素行不正生徒原因調査書』を全国の教育者に発送し、調査を行っている。いわゆる「問題児」の性向調査である。この調査書は、体質、性格、親子関係、習癖、友人関係、日常の飲食物などを詳細に尋ねたものである。この調査結果は残っていないが、ここには家庭環境の重要性、生徒の人格や学力形成の原因について客観的なデータを把握し、より有効な教育を行おうという熱意がにじみ出ている。

NO.22『修身口授書外篇』に見られる教育の工夫  明治21年(1888) 【22歳】

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 廣池の著述に『改正新案小学修身口授書外篇』(稿本)がある。これは出版には至らなかったが、尋常小学校1年生に修身を教えるための教師用の指導書であった(※『新編小学修身用書』巻之一 平成26年復刊 所収)。特徴は、暗記しやすい対句の格言を用い、格言の前半には児童が日常経験するようなことを記し、後半には教えたい徳目を示して、生徒が記憶しやすいよう工夫がなされている。授業にあたっては格言の意味を説明し、また児童と会話することによって児童の理解を深め、最後に各自のノートに書かせる、などと指示している