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連 載

生涯と業績

本シリーズでは廣池千九郎の生涯と業績を、エピソードを交えながら詳しく紹介します(月毎に更新)。

NO.110「天地の働き」に報いる  大正14年

畑毛温泉滞在中のある日、廣池は門人を連れて訪問客を見送った。帰りの途中、青々とした野菜畑を通り、農夫に出会った。廣池は「この菜を少しお分けいただけますか」と声をかけた。農夫は青菜を五株ほど抜いて快く手渡した。それをもらった廣池は、懐中紙に金を包み農夫に渡そうとした。「差し上げたものですので」と謙遜して拒む農夫のふところに、廣池は包まれた金を押し込んだ。その後、宿に着いた廣池は自分の分をわずかにとり、残りを宿泊客に分け与えた。

あとで、同行していた門人が「青菜をいくらでお買いになったのですか」と尋ねた。「二十銭だよ」という廣池の返答に、「なんと高い!五銭ほどの品ですよ」と門人は驚きながら言った。

この時、廣池は、

「私は買ったのではありません。農家の人にいただいたのです。私は天地の働きに対して感謝の念と報恩の真心を表したかったのです。しかし、それをどういった形で表すのが適切かわからない。そこでやはり、土を耕し、種をまき、肥料を与え、害虫や雑草をとり、面倒よく世話し、天地の働きの手伝いをした農家の人にお渡しするより他にないと考えたのです。」(意訳)

と述べ、金を包んだのは「私の神様に対する感謝報恩の心持ち」であることを、門人にひときわ力強く伝えた。

これを聞いた門人は自分の勘定高さを恥じたという。

NO.109 『道徳科学の論文』に「生命を与える」 大正14年(1925)【59歳】

このころ廣池は日記に次のように記している。「必ずモラル・サイエンスに極度の生命を与うること」。「モラル・サイエンス」とは、具体的には執筆に勤しんでいた『道徳科学の論文』を指す。

「生命を与える」とはどのような意味であろうか。廣池は「実行しない教説や教訓は生命なし。生命がないということは人心に芽を吹かすことができない。(中略)実行した事を話し、または書く時には、他人の心に移し植えられて芽を吹く」(一部現代語訳、以下同じ)という考えを持っていた。そして『道徳科学の論文』の中で次のように書いている。「私は20年来古聖人の足跡を践(ふ)み、自らこれを実行して、もって今日に至っております。故に(中略)本書において説かれてある最高道徳に関する記述は、言々句句(げんげんくく)みな生命を含蓄しております」※。以上の言葉から「生命を与える」とは、自ら実行することにより理論を裏付け、感化を与え得る段階に昇華させることを意味する。

このような考えのもと廣池は筆を執りつつ、自身の実行によって『道徳科学の論文』に生命を吹き込もうとした。道徳実行時の精神作用を重視したため、一人でも多くの読者に感化を与えられるよう自らの品性向上に努めていたのである。「今一段聖者とならずばモラル・サイエンスに生命無きこと」という日記の記事(大正14年7月27日)には、聖人のような人格を求める意気込みが表れている。

以前(NO.91、NO.96など)から、廣池が自己の研鑽に努めてきたことを記してきたが、特に『道徳科学の論文』 の脱稿間近においては、一層その意を強くしている。

NO.108 畑毛での様子④「アカデミー~モラロジーに基づく学校教育の構想」大正14年(1925)【59歳】

大正14年のある日、廣池は机に広げた半紙に大きく「アカデミー」と記した。「アカデミー」の意味を門人に問われた廣池は、次のように語った。


「学校という意味である。しかし、学校といっても普通の学校と違う。」「今、学校はたくさんある。大学もある。だけど、それは金儲けを教える学校だ。しかし、せっかく儲けた金の使い方を知らんから滅亡するんだ。(中略)だから今度はな、わしがちゃんと金の使い道を教える学校を建てるんだ。そして、これを建てたらなあ、男女共学だ。全寮制だ。先生たちの家もつくって、先生も生徒も二十四時間教育だ。この学校ができたらなあ、世界中から集まってきて勉強するようになるよ」(一部抜粋、意訳)

 

このように廣池は『道徳科学の論文』執筆の段階から、モラロジーに基づく学校教育の構想を練っていた。この言葉は廣池のごく一部の構想であるが、のちに具体的な項目が書き加えられて「モラロジー大学の性質及び組織」(大正15年)、さらに「モラロジー大学の設立の理由書」(昭和3年)という形で成文化された。特に後者は『道徳科学の論文』初版とともに配布された。


廣池は昭和10年に道徳科学専攻塾を開設するが、学校教育の構想は大正時代から温められていたものであった。

NO.107 畑毛での様子③ 執筆にかける思い  大正14年(1925)【59歳】

廣池は発熱と発汗に苦しみながらも、ひたすら『道徳科学の論文』の原稿づくりに勤しんでいた。見かねた門人が一旦筆を休めてから書き始めることを提案した。これに対して廣池は次のように答えている。

「そう思うであろうが、(中略)大正元年に、せめて一年ほど命をのばしていただいたら、学者として生涯末代、人の助かる道を書き残しておきたい。しかし一年では…。せめて二十年もあったら、と思ったのが、はや大正も十四年となった。この弱い体では原稿が書き上げられるか分からない…幸い書物となって、今の人には読んで助かっていただいても、百年、千年後の人が真に助かっていただけるかどうか分からないのだが、こうして苦しい中でも書きつづけなければならない…。」(意訳)


病と向き合いつつ、休まず筆を走らせていた廣池を突き動かしていたのは、学者としての使命感であった。その根底には大正元年の大患(たいかん)時の決意があったのである(大正元年の大患についてはNO.70と71を参照)。

のちにこの門人は、廣池の執筆にかける思いや苦労から受ける感化も重要であると、後進を指導している。

NO.106 畑毛での様子② 欧米旅行の計画 大正14年(1925)

執筆に打ち込むかたわら、廣池は遠大な構想を練っていた。1つは欧米旅行、1つは学校建設である。

大正14年3月、知人に宛てた手紙には次のようにある。「私には、『道徳科学の論文』発行後、直ちに渡米し、欧州を巡歴する心づもりである(中略)パウロがキリスト教を欧州に広めるためにローマに渡り、研究と布教とに20年を費やした結果、今日のようにキリスト教が欧州各国に広まっていることを考えると、私も生涯を費やして、世界平和のために努力したいと考えている」(意訳)

廣池は、パウロの宣教旅行に倣って、執筆後に欧米への渡航を計画していた。『道徳科学の論文』を軸とした研究の成果を実地で検証し、学説を広めて平和に資するという目的があった。海外渡航自体は後年の方針転換により中止となるものの、上記の文面からは世界平和を切望した廣池の使命感を感じ取ることができる。

もう1つの学校建設については次回以降にあらためて述べる。


パウロ (?-60) キリスト教の使徒。キリスト教伝道のために生涯をかけて旅をした。聖人。

NO.105 阪谷芳郎の見舞状

廣池の体調と研究の進捗については、知人たちも気にかけていた。そのうちの一人に阪谷芳郎(さかたに よしろう)がいる。阪谷は、大正2年に行なわれた廣池の講演会に参加して、その活動に賛同し、大正8年からは大木遠吉とともに廣池の講演会を主催した(大正2年の講演会についてはNO.75、大木についてはNO.85・100参照)。

大正12年8月、廣池は阪谷から見舞い状を受け取っている。畑毛における療養で体調が少し良くなった旨を伝えたことへの返事であった。文中では、廣池の症状が軽快したことの喜びとともに、ヨーロッパ大戦後の人心の乱れに対して、人々を善導する学理とそれを唱導する学者の努力が欠かせないと記し、廣池の研究に期待を寄せている。このような期待に対して、廣池は『道徳科学の論文』執筆の思いを一層強くした。

この後、阪谷には、原稿の完成したところから送って意見を求め、さらに本書の序文を依頼している。


阪谷芳郎(1863-1941)・・・大蔵大臣、東京市長、貴族院議員などを歴任する。明治神宮、明治神宮野球場の造営や乃木神社の建立のほか、各種の公益事業にも尽力した。

No.104 関東大震災 大正12年(1923)

大正12年9月1日午前11時58分、相模湾沖を震源として地震が発生し、関東一円に甚大な被害を及ぼした。関東大震災である。マグニチュード7.9、最大震度6。被害は全壊13万戸、全焼約45万余戸、死者・行方不明者約14万名といわれる。廣池は畑毛で、妻・春子と子供たちは東京で罹災した。

畑毛は、東京ほど揺れは少なかったが、当日廣池は建物の倒壊に用心して野営した。昼時ということもあって火の手は瞬く間に広がり、東京は火の海に包まれた。しかし、春子たちが住んでいた牛込区神楽町の周辺は比較的被害は少なく、家も屋根瓦や壁の破損程度で済み、火災の被害も無かった。

春子たちは偶然にも大きな被害を免れた。8月20日から震災前日まで、春子は、長男・長女の一家とともに避暑のため平塚の貸別荘に滞在していた。8月31日、春子はもう数日の宿泊を希望したが、家主から断られ、しぶしぶ東京に引き上げてきた。震災当日、その貸別荘は全壊した。もし希望通りに滞在の延長が叶っていたら、無事では済まなかったことが想像できる。

また、長男の千英(ちぶさ)も、この日たまたま体調不良で会社を休んでいたため、建物の倒壊や火災に見舞われなかった。このように少しの偶然が重なって大事に至らなかったことには、廣池も春子たちも何か感じるところがあったであろう。

No.103 畑毛での様子① 大正12年(1923)

畑毛温泉滞在中、廣池は『道徳科学の論文』の執筆に専念していた。それまでに収集した内外の専門書を部屋に持ち込み、大量の書物に囲まれながら研究に没頭した。蓄積してきた研究の成果や自身が実行して得られた経験を考証の材料にして論を構築し、筆先に表した。

部屋に積まれた蔵書は主に道徳実行の効果を証明するためのものであった。中でも洋書は、廣池の専門とする学問以外の人文科学・自然科学など他分野の知識を広くカバーするだけでなく、最先端の研究を取り入れるために欠かせない書物であった。引用に必要な箇所は付箋が挟み込まれ、アンダーラインが引かれるとともに翻訳もなされた。

廣池は病と向き合いながら寸暇を惜しんで執筆に勤しんだ(病状についてはNO.101参照)。湯舟に浸かったままでも、不調で寝込んだままでも、いつでも原稿をしたためられる準備をしていた。発熱と発汗を繰り返す中でも、思いついたら筆を執る、というようなことがしばしばあった。発汗は2時間おき、ひどい時には1時間おきに起こり、そのたびごとに入浴していた。しかし、どんなときも思索をとめることはなかった。

このような壮絶な生活を経ながら、畑毛では『道徳科学の論文』の執筆が大いに進んだのである。


※画像 部屋で休む廣池。周りには蔵書が積まれている。

No.102 畑毛温泉へ 湯治と執筆 大正12年(1923)【57歳】

8月、廣池は研究に専念するため療養を兼ねて静岡県の畑毛温泉へ訪れた。廣池は30代のころから畑毛温泉を静養の地として利用していたようで、明治44年には家族を連れてきたこともあった。このように畑毛温泉との関わりは生涯を通じて長きにわたっている。温泉宿といっても、当時は小規模な温泉場であり、アクセスも不便であった。それでも廣池がこの地を利用したのは泉質が身体に適していたからである。「とにかく皮膚の神経に効くことは日本一と考える」、あるいは「一浴毎に、目に見えて」身体に効く、と述べている。廣池はこの年から大正14年まで畑毛温泉で体調を整えつつ、研究に専念した。


※画像 廣池が借りた部屋。現在廣池千九郎畑毛記念館で保管されている。

No.101 治療に湯治を採用する 大正12年(1923)

大正元年の大病以来、廣池は原因不明の病と向き合っていた。症状は、発熱と間欠的におこる大量の発汗、加えて体温を一定に保つことができないというものであった(廣池の体調と精神療法についてはNO.91でも触れている)。大正12年2月には「遺言状を認む」ほどの状態となり、このあとは「面会謝絶、新聞も読まず、手紙も書かず、絶対安静にする」しかないというほどの不調が続いた。

廣池はこれまで療養のために、紅花を使った生薬・塗薬、グリコーゲンやタカヂアスターゼ、クラフト、ビータ、プレミン、人参など種々の滋養剤、外国製の薬のみならず電気治療など、あらゆる治療を試している。結果、温泉が効果的であることが分かった。

小康を得た廣池は、この年から本格的に温泉療法を採用することに決めた。入浴後は発汗も和らぎ、一時的に安定した。以降、湯治をしながら研究と講演を続けたのである。

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