〒277-8654千葉県柏市光ヶ丘2-1-1

TEL : 04-7173-3023

開館時間 : 9:00〜17:00

休館日 : 毎週月曜日(但し月曜日が祝日の場合は翌日)

Copyright© Chikuro Hiroike Memorial Center. 

All rights reserved

Series Article

 

連 載

生涯と業績

本シリーズでは廣池千九郎の生涯と業績を、エピソードを交えながら詳しく紹介します(月毎に更新)。

NO.73 妻の「内助の功」を称える 大正元年【46歳】

現在で言えば義務教育修了程度の学歴しかない廣池が博士号を取得したことは、世間を騒がすには十分なほど大ニュースであった。報道陣が廣池のもとに押しかけた。廣池は読売新聞(12月11日付)で、妻春子に感謝の気持ちを述べている。“私が今日あるをえたのは先輩の指導によることはもちろんであるが、また実に妻の内助のおかげである。私は先輩に感謝するとともにより深い敬意をもって妻に感謝する”と。

「良妻賢母」が理想の女性像とされていた当時、廣池の成功と春子の献身ぶりは美談として新聞各紙で取り上げられた。読売新聞(同上)では春子の経歴とともに「模範的夫人」として紹介している。また、「私が博士になったのは妻のおかげ」という廣池の文章が『婦人世界』(大正2年2月号)に掲載された。その中でも、育児も含めた家庭内のことを一切取り仕切り、自分の時間を犠牲にして尽くしてくれた春子の具体的なエピソードを紹介しながら、感謝の気持ちを綴っている。廣池の学問上の栄誉は、妻春子の献身の成果でもあったと言える。

​画像は『婦人世界』(大正2年2月号)の記事

NO.72 法学博士の学位を授与される 大正元年【46歳】

12月7日、病に苦しむ廣池のもとに博士号授与の知らせが届いた。明治43年に提出した論文※が、およそ2年間に及ぶ審査を経て、認定された。同月10日、廣池は法学博士の学位を取得。日本において135番目の法学博士であった。同月12日付の『官報』では、廣池の論文の概要と評価が掲載された。その中で中国法制史という学問分野を「未墾の原野」に例え、“大量の古典を読破し、その知識を近代法律学の手法をもって”まとめた学位論文を“広漠なる原野の一部を初めて開拓したもの”と評した。そして“前人未到の領域を開拓”し、“学界の進歩に大いに貢献した” として、“本論文の著者は法学博士の学位を授けるのに適当な学力があるものと認める”と記されている。

若いころから、独学で地道に積み重ねてきた研究が認められた。

※学位論文の提出についてはNO.67をご覧ください。

画像は廣池の「学位記」

NO.71 大正元年の大患②  大正元年【46歳】

生死の境をさまようような状態の中で廣池は、ある決意をする。「私に一年の生命を貸してくださるならば、私は人心救済に関する世界諸聖人の真の教訓に基づく前人未到の真理を書き遺しておきましょう。もし、またさらにこれより長い生命をお貸しくださるならば、(中略)全人類の安心、幸福及び人類社会永遠の平和の実現に努力させていただく所存です」と。生きているかぎり、自分の力を人類社会に尽くすというものであった。これに加え、廣池はこれまでの生き方を根本的に省みた。これらにより精神が病に勝ったのか、徐々に快方へと向かう。廣池はのちに、この大病を「大正元年の大患(たいかん)」と呼び、この時の誓いが「モラロジー建設の目的を確立し」「具体的にその準備を」する機会となったと述べている。

NO.70  大正元年の大患① 大正元年【46歳】

廣池は大正元年9月頃から体調を崩す。長年にわたる極端な研究生活が原因であった。明治37年頃にも深刻な体調不良を起こし、万一を覚悟したこともあったが、このときは快復している。そうして『古事類苑』編修員の業務を全うし、その後皇学館の教授として学生の指導にあたりながら、中国への調査旅行など自身の研究にも没頭した。しかし、過度な研究生活を続けていたため、再び病の身となってしまった。9月にひいた風邪が悪化し、ついに11月には入院したが、快方に向かうことなく、12月には「ただ死を待つほかなかった」というような重篤な状態となった。

NO.69 『我国体の精華』を発行する 明治45年(大正元年)【46歳】

明治45年7月30日、天皇が崩御し、大正時代が始まった。廣池は『我国体の精華』という小冊子を書き上げ、大喪(天皇の国葬)の翌々日9月15日に発行している。諸言によれば“本書は明治天皇御大喪の記念として我国体の精華、道徳の淵源について、謹んで意見を述べたもの”で、“専門である法律学とは別の分野ではあるが、教育に資する1つの資料として著した”としている。皇学館の学生を中心に関係者へ配布した。本文6頁の本書は、第一章 敬神尊祖の国風、第二章列聖慈悲の宏謨(こうぼ)、第三章 国民公私道徳の本義、という構成となっている。

NO.68 皇学館の修学旅行に引率 明治44年(1911)【45歳】

明治44年10月下旬、廣池は皇学館の学生を連れ、関東へ修学旅行に出かけた。栃木県今市市の報徳二宮神社、日光市の日光東照宮などを訪問している。見学地における解説者は、引率の廣池であった。境内を散策しながら聞く、歴史に詳しい廣池の説明は、学生たちにとって大変刺激になったと想像できる。廣池の解説は史実をなぞるだけではなく、教育的な訓示もあった。例えば、東照宮では、一本だけが逆さに模様が彫られている陽明門の柱に「満つれば闕(か)くる」という戒めがあることを紹介している。

東京帝国大学訪問時には、憲法学の権威である穂積八束(やつか)教授の講義を学生に聴講させている。八束は、廣池の恩師穂積陳重の弟である。皇学館で憲法の講義を担当していた廣池は、八束の皇室を中心とした憲法解釈と論調を参考とし、日ごろから尊敬していた。

NO.67 学位論文を提出する  明治43年(1910) 【44歳】

明治35年ごろ廣池は、『支那文典』による学位取得を試みたが、うまくいかなかった。その後、東洋法制史の研究で学位を取ることに方針を転換し、恩師の穂積陳重も勧めてくれた。明治39年の暮れ、法理研究会の帰り道、穂積から再度博士論文の提出を促され、本格的に取り組み始めた。廣池はこれまでの法制史研究や清国への学術調査旅行の成果を、古代中国における親族法の研究にまとめ、明治43年11月学位論文として東京帝国大学に提出した。

当時の日本の学位は、①帝国大学大学院の試験に合格する、②論文を提出して学力を認められる、③博士会で学力を認められる、のいずれかを経て文部大臣が授与するもので、現在とは比べものにならないくらいの価値と権威があった。

NO.66 労働問題の解決に取り組み始める  明治43年(1910) 【44歳】

明治43年頃から、廣池は当時社会問題となっていた労働問題の解決に取り組むようになった。当時主流だった労働者の権利意識を高め、経営者への対抗意識をあおるような方法ではなく、労資双方の道徳的意識を高め、和解と協調による穏健な解決方法を提示した。廣池は、「予は会社の味方にして、同時に真に労働者の味方なり。今日、ただ一方だけを利せんとするものは道徳にあらず。競争を教唆するものなり」と述べている。

具体的には、富士瓦斯紡績の小山工場を始め、東洋紡績や三越呉服などに足を運び、とくに小山工場は同郷の先輩和田豊治と面識があったことなどから、大正末年までに20回以上も訪れている。この労働問題を道徳的に解決しようという試みは、道徳科学の理論を実践する格好の機会となった。

1 / 10

Please reload

​過去の

記事

「記念館へようこそ」
coming soon
coming soon
coming soon