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連 載

生涯と業績

本シリーズでは廣池千九郎の生涯と業績を、エピソードを交えながら詳しく紹介します(月毎に更新)。

NO.79『日本憲法淵源論』の発行 大正5年(1916)【50歳】

11月発行。本書の目的は、第一次世界大戦後の社会情勢の善導、特に社会主義・民主主義などの外来思想による人心の混乱を救治することにあった。

廣池はまず法律研究の専門家という立場から、各国の憲法の内容や制定の淵源はその国民性に基づくと述べ、明治の立憲体制の成立を学術的に説こうとした。その上で、明治憲法の理念は“慈悲寛大自己反省”(NO.78参照)の精神に淵源すると述べている。国家の法律・教育などは、すべてその国柄や慣習を踏まえたものでなければ実効性がないとする廣池は、日本人の思想善導は憲法の根底に流れる“慈悲寛大自己反省”の精神によって行うべきであると主張した。このような点で本書は単なる憲法論ではなく、道徳教育論の書と言える。

​画像は『日本憲法淵源論』。(現在は『廣池博士全集』④に所収)

NO.78『伊勢神宮と我国体』の発行 大正4年(1915)【49歳】

『伊勢神宮』(明治41年発行)に「神宮中心国体論」という22頁の小論文を加え、改題して出版したのが本書『伊勢神宮と我国体』である。これまで廣池は、皇室の家系が途切れることなく続く理由を皇祖神天照大神の高い道徳性と、それを継承した歴代天皇の道徳実践にあると説明していた。本書ではその理由についてさらに深め、天照大神が、天(あま)の岩戸籠(ごも)りの際に発揮した「慈悲寛大自己反省」の精神にあると述べた。本文129頁。

 

画像は『伊勢神宮と我国体』。(『廣池博士全集』④所収)

NO.77 『隠居論』の書評とその影響  大正4年(1915) 【49歳】

6月25日・26日の読売新聞に『隠居論』という書籍の、廣池による書評が掲載されている。著者は穂積陳重。この年に第二版(初版は明治24年)が刊行された。廣池はこの改訂に協力している。書評には次のようにある。“世界における文明の進歩・人類の発展及び幸福の歴史は、決して個人主義もしくは自由主義のごとき単純なる主義もしくは思想の伝播《でんぱ》のみによらず、実に複雑な人類生活の基礎をなす人間道徳心の向上と、これに伴う社会組織の発達にある”(読みやすいように一部を現代文に直した)。文明の進歩、人類の発展・幸福は、主義思想の広がりだけでは達成せず、“道徳心の向上”が欠かせないという主張に注目している。“道徳心の向上” “道徳の進歩”などは当時から廣池が盛んに主張したことの1つであり、のちの著作でも論じられている。これらを踏まえると、廣池は改訂作業を手伝うことで恩師の主張に触発され、“道徳心の向上”という観点に確信をもったと考えられる。師の影響は、専門学だけでなく道徳の研究にも、多分にあったのである。

NO.76『東洋法制史本論』の発行 大正4年(1915)【49歳】

3月、廣池は学位論文をまとめた『東洋法制史本論』を刊行した。本書は3部構成である。第一部は「支那古代親族法の研究」、第二部は「韓国親族法における親等制度の研究」、第三部は「支那喪服制度の研究」である。第一部は学位論文のうち主論文として提出したもので、古代中国の親族法について「親族」という字の意義から詳細に説いた。第二部は韓国親族法の特徴を示し、穂積や韓国法典調査委員長に高く評価された。第三部は周の時代の喪服制度をテーマとしたものである(第二、三部は副論文として提出)。

廣池には東洋法制史について発表していない壮大な構想があったが、専門学による著書は本書で最後となった。道徳の研究にそれ以上の価値を見出し、使命感をもって取り組むようになったためである。

 

画像は『東洋法制史本論』。(現在は『廣池博士全集』③に所収)

NO.75 帰一協会 大正2年(1913) 【47歳】 

大正年間における廣池の活動の特徴として、多くの講演が挙げられる。この年の代表的なものの1つが帰一協会※における発表であった。日本社会の思想善導を目標としたこの会は、月例で会員を中心に講演会を行っていた。外部講師として招かれた廣池は大正2年10月に登壇している。発表内容は、東洋法制史と神道の研究で培われた知見を柱とする義務先行説であった。その主旨は「真性の権利、自由、威厳などは、自ら主張して得られるものではなく、他より与えられるもの」というものであった。渋沢栄一、成瀬仁蔵(日本女子大学校校長)、阪谷芳郎(東京市市長)、筧克彦、浮田和民(うきたかずたみ)(法学博士)などが聴講した。廣池の主張は多くの賛同を得られ、特に渋沢が強く興味を持ったという。義務先行説は、のちにモラロジーにおける主要な理論の1つとなった。

※帰一(きいつ)協会は、外来の思想や主義の影響で混沌とする日本の思想界を憂いて“堅実な思潮を作って一国の文明に貢献する”ことを目的に結成された組織である。主な活動は、思想や宗教に関して研究・討議するための講演と出版であった。「帰一」の由来は“あらゆるものは1つに帰する”。渋沢栄一を会長とし、服部宇之吉・姉崎正治・成瀬仁蔵など、日本の経済界あるいは教育界で活躍する人士がメンバーであった。

NO.74 学位授与の祝賀会と廣池の論文の評価 大正2年(1913) 【47歳】

4月28日、廣池の学位授与祝賀会が催された。場所は上野精養軒。廣池は謝恩のため、穂積陳重、井上頼国などの恩師をはじめ、交流の長い学者仲間や友人たちを招いている。代表として穂積が祝いのスピーチをした。その中で、廣池の論文とその審査の概略について、次のように述べている。“この論文は、博士論文としては今までにないほど大部なもので、考証が精密で着実な議論がなされています。(ここから感じられる)ひたむきな研究態度が、審査委員に評価されたようです。さらに教授会の投票は全部白票でした。これは学界未曾有の好成績で、学者としてこのうえないことです。しかも法科における論文通過は、従来すでに難事中の難事で、同じ学位でも非常に尊いことと思われます” (要約)。

NO.73 妻の「内助の功」を称える 大正元年【46歳】

現在で言えば義務教育修了程度の学歴しかない廣池が博士号を取得したことは、世間を騒がすには十分なほど大ニュースであった。報道陣が廣池のもとに押しかけた。廣池は読売新聞(12月11日付)で、妻春子に感謝の気持ちを述べている。“私が今日あるをえたのは先輩の指導によることはもちろんであるが、また実に妻の内助のおかげである。私は先輩に感謝するとともにより深い敬意をもって妻に感謝する”と。

「良妻賢母」が理想の女性像とされていた当時、廣池の成功と春子の献身ぶりは美談として新聞各紙で取り上げられた。読売新聞(同上)では春子の経歴とともに「模範的夫人」として紹介している。また、「私が博士になったのは妻のおかげ」という廣池の文章が『婦人世界』(大正2年2月号)に掲載された。その中でも、育児も含めた家庭内のことを一切取り仕切り、自分の時間を犠牲にして尽くしてくれた春子の具体的なエピソードを紹介しながら、感謝の気持ちを綴っている。廣池の学問上の栄誉は、妻春子の献身の成果でもあったと言える。

​画像は『婦人世界』(大正2年2月号)の記事

NO.72 法学博士の学位を授与される 大正元年【46歳】

12月7日、病に苦しむ廣池のもとに博士号授与の知らせが届いた。明治43年に提出した論文※が、およそ2年間に及ぶ審査を経て、認定された。同月10日、廣池は法学博士の学位を取得。日本において135番目の法学博士であった。同月12日付の『官報』では、廣池の論文の概要と評価が掲載された。その中で中国法制史という学問分野を「未墾の原野」に例え、“大量の古典を読破し、その知識を近代法律学の手法をもって”まとめた学位論文を“広漠なる原野の一部を初めて開拓したもの”と評した。そして“前人未到の領域を開拓”し、“学界の進歩に大いに貢献した” として、“本論文の著者は法学博士の学位を授けるのに適当な学力があるものと認める”と記されている。

若いころから、独学で地道に積み重ねてきた研究が認められた。

※学位論文の提出についてはNO.67をご覧ください。

画像は廣池の「学位記」

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