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生涯と業績

本シリーズでは廣池千九郎の生涯と業績を、エピソードを交えながら詳しく紹介します(月毎に更新)。

NO.67 学位論文を提出する  明治43年(1910) 【44歳】

明治35年ごろ廣池は、『支那文典』による学位取得を試みたが、うまくいかなかった。その後、東洋法制史の研究で学位を取ることに方針を転換し、恩師の穂積陳重も勧めてくれた。明治39年の暮れ、法理研究会の帰り道、穂積から再度博士論文の提出を促され、本格的に取り組み始めた。廣池はこれまでの法制史研究や清国への学術調査旅行の成果を、古代中国における親族法の研究にまとめ、明治43年11月学位論文として東京帝国大学に提出した。

当時の日本の学位は、①帝国大学大学院の試験に合格する、②論文を提出して学力を認められる、③博士会で学力を認められる、のいずれかを経て文部大臣が授与するもので、現在とは比べものにならないくらいの価値と権威があった。

NO.66 労働問題の解決に取り組み始める  明治43年(1910) 【44歳】

明治43年頃から、廣池は当時社会問題となっていた労働問題の解決に取り組むようになった。当時主流だった労働者の権利意識を高め、経営者への対抗意識をあおるような方法ではなく、労資双方の道徳的意識を高め、和解と協調による穏健な解決方法を提示した。廣池は、「予は会社の味方にして、同時に真に労働者の味方なり。今日、ただ一方だけを利せんとするものは道徳にあらず。競争を教唆するものなり」と述べている。

具体的には、富士瓦斯紡績の小山工場を始め、東洋紡績や三越呉服などに足を運び、とくに小山工場は同郷の先輩和田豊治と面識があったことなどから、大正末年までに20回以上も訪れている。この労働問題を道徳的に解決しようという試みは、道徳科学の理論を実践する格好の機会となった。

NO.65 『伊勢神宮』の執筆 明治41年(1908) 【42歳】

伊勢の神宮について近代的な視点で書かれた本は、廣池による著述まで存在しなかった。神宮司庁などの公的機関が神宮に関する書籍発行の準備をしていたが、その編纂はなかなか進まなかったようである。そのため国民が最も重要な神社について知ることができないというような状況であった。そこで、神宮皇学館の教授であり、日本の歴史に通じ、神道にも造詣が深い廣池に執筆を勧める声がかかる。廣池にも“近代的な視点から神宮と国柄について説くことは教育上大切”という思いがあり、意欲的に筆を執った。

『伊勢神宮』は、東洋法制史を専門とする立場から、法律的、社会学的、歴史学的考察をもって神宮と皇室並びに日本の国柄との関係について解説した本である。神宮の歴史、日本人と中国人の崇拝対象の違い、天照大神と祖先崇拝などを述べ、更に皇室の万世一系の原因に関しては、天照大神の高い道徳性と、それを継承し実行した歴代天皇の精神性にあると発表した。※本書の発行部数、社会的な影響などについてはリンク先を参照。

 

画像は『伊勢神宮』の私家版。本書は現在『廣池博士全集』4巻に『伊勢神宮と我国体』として収録されている。

NO.64 学術調査旅行②  明治41年(1908) 【42歳】

廣池は調査旅行によって、文献的な研究から得ていた東洋法制史の知識を細部にわたって裏付けることができた。専門学に関することの他に、思わぬ収穫があった。北京の孔子廟を訪問した際、孔子の子孫やその高弟顔回の家系が存続し、人々から尊敬されている事実を目の当たりにしたことである。廣池は、優れた道徳性と家系の永続性の関係に注目した。これを傍証として、日本の皇室の万世一系(1つの家系が永く続くこと)の原因がその道徳性にあるという論を立てた。この主張は帰国後に著した『伊勢神宮』で発表されている。このような意味で、学術調査旅行の成果の1つは『伊勢神宮』の発刊であった

NO.63 学術調査旅行①  明治41年(1908) 【42歳】

明治41年、廣池は東洋法制史の学術調査のために清国と韓国を約40日間旅行した。皇学館の春休みを利用したこの旅行は、北京の公使館に駐在していた従兄弟の阿部守太郎一等書記官(後の外務省政務局長)の協力もあって実現した。

文献的な研究がひと段落した廣池にとって、実地調査は構築した理論を確かめるために欠かせないものだった。主な目的は、憲法や刑法、民法などの疑問点の解明と中国における文字教育の視察であった。廣池は現地で阿部守太郎をはじめ学者仲間らの協力によって調査をしつつ、訪問各所で盛大に歓迎された。このことは現地の新聞や雑誌にも取り上げられている。北京では、清国の法律を研究する機関において講演する機会もあった(学術調査旅行②に続く)。

NO.62 神宮皇学館の教授に就任  明治40年(1907) 【41歳】

明治40年、廣池は三重県にある神宮皇学館(現在の皇学館大学)の教授に就任した。皇学館から要請があったことに加え、師の穂積陳重からの任官を勧めるアドバイスもあり、赴任を決めた。

受け持った講義は「古代法制」「東洋家族制度」「国史」「歴史研究法」などで、専門の法制史のほか歴史が多かった。廣池の講義は学生から好評で、廣池も自らの著作を用いて精力的に講じた。赴任2年目には、『古事類苑』編纂時に培った神祇や宗教に関する知見が見込まれ、「神道史」の講義を任されている。こうして廣池の研究領域は広がっていった。

NO.61 法制史研究の展望とその基礎的な研究 明治39年(1906) 【40歳】

戦後になって発見され、出版に到った廣池の研究に『倭漢比較律疏(わかんひかくりっそ)』『大唐六典(だいとうりくてん)』がある。『倭漢比較律疏』は日本の大宝令と中国の法律を比較研究したもの。『大唐六典』については、近衛本『大唐六典』全巻にわたって句読訓点・注記などを書入れ、より読みやすくしたもの。これら2書の研究は、発見当時すでに後人の手によって東洋法制史における基礎文献となっていたが、廣池が取り組んだ時期は非常に早く、また優れた業績であった。明治に発表されていれば、廣池の学者としての評価は格段に高まっていたと言われている。

廣池が公表しなかったことには、のちに関心が他に移ったこともあるが、“東洋法制史研究の大系化”という壮大な構想があったからでもある。草稿として残る「東洋法制史総論」「日本法制史大宝令の研究」などの出発点に、『倭漢比較律疏』『大唐六典』の研究が存在した。

NO.60 画期的な文法書『支那文典』の発行 明治38年(1905) 【39歳】

廣池は漢学塾で学んでいた頃から “漢文も英文法のようなルールが整っていたら、どれだけ便利だろう”という考えを持っていた。そのような思いが根底にあり、専門学東洋法制史の基礎研究として資料を収集しつつ、整理しながら「支那文典」の原稿をまとめた。この研究が認められ、廣池は早稲田大学の講師に就任している(NO.56参照)。

『支那文典』は明治38年に大学の講義録として出版された。特徴はヨーロッパの語法を参考にして漢文を品詞に分け、その規則性を示している点にあり、また引例が多様で精確であることから、その学習しやすさが評判となった。そのため本書は昭和2年まで版を重ね、20年のロングセラーとなって広く読まれている。

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