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連 載

生涯と業績

本シリーズでは廣池千九郎の生涯と業績を、エピソードを交えながら詳しく紹介します(月毎に更新)。

No.99 モラル・サイエンス研究所の設立の構想   大正11~12年

廣池は、活動を続けていく中で、研究の拠点すなわち研究所の必要を感じていた。大正11~12年のころにはモラル・サイエンス研究所設立に関する原稿が散見される。まず大正11年には「モラル・サイエンス研究所要領」「研究所設立の計画」「研究所計画」などの文書がある。 「モラル・サイエンス研究所要領」には直接研究所設立に言及する記載はないが、モラル・サイエンスの説明、研究の目的、その普及など研究所の役割と捉えられる内容が記されている。「研究所計画」には所長・助手という役職、その人件費、ほか翻訳料、研究費についての記載がある。

大正12年の「モラル・サイエンス研究所設立の主旨」では“最高道徳の科学的研究のために研究所を東京に設立し、各国に普及する”“研究所の半面の事業は、宣伝のために著作・出版・講演を行う”とあり、設立の主旨がより明確になっている。これらの事業を通じて思想の問題・国際関係・労働問題などの改善を目指している。このように研究所設立の社会的な意義を端的に示した。講演や研究、有識者との面会という活動の一方で、着々と研究所の構想を固めていた。

No.98 杉浦重剛と対談する    大正12年(1923)

6月、廣池はモラル・サイエンス研究について、杉浦重剛(すぎうら じゅうごう)とも意見を交わした。

廣池は、杉浦が「人類の文明及び幸福は合理的なる道徳の発達にあることを悟り、物理学の法則を人間の行為の法則に応用して、道徳を説明」しようとした人物として、この対談で聞いた彼の理論を『道徳科学の論文』の中で紹介している。

「合理的なる道徳」とは何か。杉浦は「物質と勢力」の観点から、「人間の行為」を「人間の勢力(energy)」とみなし、人間の道徳的行為は幸福を生じ、不道徳的行為は不幸を生じるとした。行為の累積の結果は物理学のコンサーベイション・オブ・エナジー(勢力の保存)に当たる。故に中国古典『周易』にある「積善の家には必ず余慶(よけい)あり、積不善の家には必ず余殃(よおう)あり」という教えは、人間の行為に対する一つの勢力の保存を説明するものであるという。

以上のように杉浦は近代自然科学と儒教道徳の折衷を説き、人間の行為と幸福の因果関係を示そうとした。このため廣池のモラル・サイエンスにも賛同した。


杉浦重剛(1855~1924)

教育家・思想家。大学南校(のちの東京帝国大学)卒業。明治9年(1876)から政府留学生としてイギリスで科学を学ぶ。帰国後は東京大学、読売新聞の勤務を経て、文部省参事官兼学務局次長、衆議院議員、東京英語学校長などを歴任した。大正3年(1914)より、東宮御学問所御用掛となり、倫理(帝王学)を担当した(同10年に退任)。

No.97『道徳科学の論文』執筆の準備が整う ‐洋書の収集 大正11年(1922)

 廣池は『道徳科学研究所紀要』(昭和6年)に次のように記した。「大正四年以降初めて具体的に『道徳科学の論文』(中略)の内容の組織に着手し」「傍ら必要なる内外の書籍の購入に着手し大正十一年には必要なる英、独、仏その他の外国書もほとんど備わり」「その大著述の内容の組織もすでにひと通り出来て目録体の原稿が出来上り」「更に内外の書籍より本書に引用せんとする項目にはいちいちその書籍の欄外に附箋を施し(後略)」。このように『道徳科学の論文』執筆の準備は着々と進められた。

 洋書は、廣池にとって道徳実行の効果を検証するために欠かすことのできない研究資料であった。学問領域としては多岐にわたるが、一部をとりあげると、生物学者ジョン・アーサー・トムソンの『科学大系』、進化論者T・H・ハックスリーの『自然における人間の位置』、生物学者エルンスト・ヘッケル著『人類発生論』などがあり、自然科学的な文献が多い。

 洋書を開くと、多くの直筆による書き込み、アンダーライン、文章を認めた紙が貼ってあるなど、廣池の研究の足跡があるのが見て取れる。このような研究の痕跡は、廣池が科学的な根拠に基づいて道徳を説こうとした証拠なのである。


画像は、洋書(約2500冊)が保管されている廣池千九郎記念文庫(収蔵展示)。

No.96 自身の精神向上の必要性を痛感する 大正11年(1922)

大正11年8月、廣池は日記に


「松方老侯始め上流階級を感化して最高道徳を高貴な人々に普及するには、自分の精神をうつす必要がある。どのくらい自分の精神を陶冶することができるか。偉大な精神に至らなければ、高貴な方々をどうして感化なんてできようか」(意訳)


と記し、自身の精神向上の必要性を痛感している。これは同月20・21日元老・松方正義を訪問するにあたっての心情を書き綴ったものである(会談についてはNO.86参照)。

 このように廣池は会談や講演で最高道徳について述べる際、学術的な根拠をもって整然と理論を説くのみならず、その理論に基づいた実行によって、対象を感化しえるほどの品性の向上に努めていた。廣池にとって、モラル・サイエンスの研究は、このような努力をともなうものであった。

No.95 朝鮮巡回講演旅行②(斎藤実①)大正11年(1922)【57歳】

朝鮮半島に渡って間もなく、廣池は斎藤実(さいとう まこと)朝鮮総督と面会した。斎藤との交流は比較的長く、昭和10年まで及んでいるが、最初に会ったのがこの時であった。

会談の詳しい内容は不明だが、数少ない史料のうち、“政策ではなく道徳の実行を尊ぶこと”というような廣池の断片的なメモから、斎藤に「道徳を重んじる統治」を勧めていたことが読み取れる。

斎藤は廣池の説くモラル・サイエンスに共感した。そのため、数回にわたる面談だけでなく、総督府主催の講演会を開いている。

在任中、斎藤のとった方針は「文化統治」であった。社会インフラを整え、教育を普及し、それまで認められなかった言論・集会・出版の自由を認め、融和を図った。その実績が買われ、斎藤は昭和4年にも2度目の総督に任命されている。廣池の道徳論が斎藤の施策に何らかの影響を与えたかは不明だが、斎藤の2期12年にわたる在任期間は比較的穏和な時代であったという評価がなされている。


斎藤実(1858~1936)

海軍軍人。朝鮮総督、内閣総理大臣などを歴任。穏健派で知られ、昭和天皇からの信頼も厚い人物であった。

No.94 朝鮮巡回講演旅行① 大正11年(1922)【56歳】

廣池はこの年の4月から6月にかけて、朝鮮※で巡回講演を行っている。4月8日に釜山(ぷさん)に着き、12日には京城(けいじょう。現在のソウル)に入った。翌13日には朝鮮総督府を訪問。講話は京城、釜山のほか、仁川(じんせん)、大田(たいでん)、大邱(たいきゅう)など各所で行われた。「釜山日報」(4月28日)には次のような記事がある(一部要約)。


“京城方面各地において講演中である廣池千九郎博士は、来月14、15日頃釜山において教育会の下、講演会を開く予定である。博士は倫理を科学の上に組み立て、独創の学説を唱えた人で、伝統的規範的なる倫理、道徳及び信仰的宗教より脱し、科学の根底に立脚した宗教倫理について講演する”


このように廣池の動向だけでなく講演内容にも触れられており、宣伝効果もあったと思われる。

渡航の目的の1つは“モラル・サイエンスの力だめしと経験的研究”であった。目的は十分に果たせたようで、中でも朝鮮総督の斎藤実(さいとう まこと)に面会し、講演の趣旨に賛同を得られたことは大きな成果であった(斎藤実とのエピソードはNO.を改めて述べる)。


※現在の韓国。当時は日本統治下。廣池にとって明治40年の調査旅行以来の渡航であった。

No.93 半六の遺稿に巻頭言を書く  大正10年(1921) 【56歳】

この年の10月、廣池は父・半六の遺稿「浄土往生記」※に巻頭言を書いている。この中で廣池は、家の安泰と自身の成功は半六の深い信仰に基づく徳行にあるとし、亡父の徳の由来を後裔に示した。

本資料において興味深いところは先祖や家紋について言及している点にある。多少の情報を補って要約すると、半六は姉夫妻の養子となり、一時、今永を名乗る。明治に入って廣池姓に戻った。今永家は、もともと宇佐八幡宮の神官であった池永家から別れた家柄といわれ、代々、廣池の生家の近くにある県社大貞八幡神社(通称、薦神社)に仕えていた家系であった。境内にある三角池から刈り取ったマコモを乾燥させ、御社に奉納する神官であったという。

家紋は「角切り八角に公(すみきりはっかくにきみ)」。池永家の遠祖の一人宇佐の大宮司公池守(きみのいけもり)の「公(きみ)」に由来するといわれている。

令和3年度企画展示資料である本資料の、廣池手書きの家紋は一見の価値がある。


画像は「浄土往生記 巻頭言」 。※本書の内容については後のNO.で述べる

No.92 道徳教育の工夫 大正10年(1921)

この年行われた講演で、廣池は次のように述べている。「道徳と科学とは二本の平行線のごとく、どこまでいっても交わらぬと説く人がある。それは旧時代の道徳においてであり、旧時代の科学においてである。少なくとも最近起こりつつある科学においては、科学の中に道徳性を包含し、道徳の中に科学性を包含しつつ展開する傾向を示しつつある」と。科学的(学術的)な理論に基づく、合理的な道徳教育を志向している。

この思いの表れか、ある講習会では道徳を3つの段階に分けた表を使って、その質に違いがあることを示し、質の高い道徳を記憶しやすいように格言の形式で説くなどの工夫がみられる。例えば「慈悲寛大自己反省」「忠誠努力して要求せず」「人心を救済して陰徳を積む」などである。廣池は以前から講演の中でモラル・サイエンスについて述べてきたが、この回は表や格言形式を導入したことで画期的であった。

この格言形式で説かれたものが原型となり、後に「最高道徳の格言」としてまとめられていく。

No.91 反省と誓い 大正9年(1920)【54歳】

この年、 廣池は相変わらず研究と講演活動に勤しんでいた。しかし一方で、身体の状態は芳しくなく、3月ごろから風邪、発熱、発汗が続いた。病状は一進一退、寒気が去らず、4月・5月・6月は床に伏す日が多かった。

当時の日記には反省と誓いが記されている。「一視同仁の心使いで各方面に対すること」「苦労は自分がこれをなし、幸福は人に与える心使いをすること」「人心救済の目的にのみ従事すること」など、ほかにもおびただしい数の反省と誓いの記載が散見される。廣池は薬や滋養物などの物質的な治療とあわせて、精神的な療法を取り入れていた。これには科学的な見地に基づく身体に対する精神作用への期待があり、病床における反省と誓いはその実験を兼ねていた。これらの取り組みは「心使いの実践」の経験値として蓄積され、モラロジーの理論に活かされていく。

以上のような記事のほかに「モラル・サイエンスの研究に従事し、百世不易(※永久に変わらないの意)の真理を研鑽し人類社会の平和幸福の基礎を確立のこと」とあり、研究への意気込みが知れる。このように病と向き合う中で心使いの改善を図ることによって自分を奮い立たせるとともに、研究理論の構築をなしていった。


画像は廣池の日誌。

No.90 父・半六 ① -廣池の孝行 大正8年(1919)

大正8年8月、廣池の父・半六が亡くなった。享年79。

廣池は後年「私の今日あるは皆両親のお陰である。殊に父の積徳のお陰である」と述べている(母・りえについてはNo.2、87参照)。「父の積徳」とは何を指すか。

半六は、農家を営み、稼業に精を出すとともに、たいへん信仰心が厚く、神仏を敬うことや地域社会に貢献することを大切にする人物であった。特に浄土真宗の信徒として農閑期には家々を回って説法する生活を永年続けたことは、廣池に多大な感化を与えた。上記の廣池の言葉には”衆生済度に尽くした父の功徳の積み重ねがあってこその自分”という感慨が表れている。

父親の生き方から感得した敬神と人心救済の念は、科学的な考察を経て、モラロジーの理論へと脈々と受け継がれている。


画像は、珍しい食べ物が手に入れば両親の元に送っていた廣池が、半六にしたためた宛書で、使われず手元に残ったものである(宛先の住所は半六が晩年に身を寄せたところ)。

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