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記念館へようこそ

連 載

記念館へようこそ

『モラロジー研究所所報』(※現『まなびとぴあ』)平成26年4月号~平成28年3月号で連載されたシリーズ「記念館へようこそ」を毎月更新しています。​全24回。廣池千九郎記念館は全国に4つあり、本コーナーでは見出し横に館名を明記しました。月毎に各館の展示物を紹介します。

「生家」―百五十年前、すべてはここから|中津|

廣池千九郎の生家がいつ建てられたかは、資料もなく判明していませんが、江戸時代後期のものと考えられます。明治41(1908)年に廣池家から人手に渡ったものの、戦後になって研究所が時宜(じぎ)を得て買い取りました。


千九郎が住んでいた当時は母屋(おもや)を中心に納屋(なや)、物置小屋などが敷地内にありましたが、現在では母屋だけが残されています。内部は四つの部屋と土間があり、仏間には大きな仏壇が置かれています。室内を見渡すと、元気に暮らす千九郎少年の姿が目に浮かんでくるようです。一時、小川含章(おがわがんしょう)先生の麗澤館や学校の寄宿舎に身を寄せますが、結婚後一年たった明治23(1890)年、市の中心部にある金谷(かなや)町に移るまで基本的にここで暮らしました。千九郎がこの家で生まれたのが、今からちょうど百五十年前の3月29日。
そう、すべてはここから始まったのです。(『モラロジー研究所所報』平成28年3月号掲載)

『学位記』―日本で第百三十五番目の法学博士号|柏|

廣池千九郎は、大正元年12月10日に法学博士の学位を授与されます。学位請求の主論文は「支那(しな)古代親族法の研究」で、東洋法制史の先駆(せんく)をなすものです。正規の大学教育を受けたことのない千九郎は日本で135人目の法学博士となったのです。
「末(すえ)は博士か大臣か」と言われていた時代ですから、一世一代の輝かしい栄誉を得たことになるわけですが、当時の千九郎は生死にかかわる重い病におかされ、また次男の病状も思わしくない状況でした。大正元年11月14日に学位号授与内定の電報が来た時も、千九郎ははっと驚いて次男の危篤の報(しら)せと勘違いしたそうです。同年11月26日には千九郎自身もとうとう病院に入院します。しかし病状は悪化し、結局は服薬もやめて「静臥(せいが)し専(もっぱ)ら天命を俟(ま)つ」と決心し、12月7日には退院しています。
何事も無ければ、めでたいばかりの学位授与ですが、これらの重なり合った出来事が千九郎のその後の人生を定める大きな節目となったのです。(『モラロジー研究所所報』平成28年2月号掲載)

『晩鐘』―千九郎の愛したミレーの絵画 |大穴|

平成28年は廣池千九郎の生誕150年目ですが、2年前の平成26年はフランスの画家ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875)の生誕200年で、日本でもいくつかの展覧会が開催されました。ミレーといえば『種をまく人』や『晩鐘(ばんしょう)』『落穂拾(おちぼひろ)い』などの農民画が有名ですが、千九郎もミレーの農民画をこよなく愛しました。大穴の居室に掛けられていた『晩鐘』と『落穂拾い』の複製画は、現在もそのままに残されています。

ミレーの『晩鐘』について、千九郎は門人に次のように話をしたと伝えられています。「夕焼けのたそがれ時、どこからか静かに晩鐘の音が流れてくるようだな。一日の仕事を終え、感謝の祈りをする純朴な農夫の心持ちがよく現れていて、実によい」。

 

自然とともに生き、自然に生かされているという感覚を、千九郎は道徳の研究と実践を通じて、ミレーはその農民画を通じて、現代の私たちに伝えてくれているのではないでしょうか。(『モラロジー研究所所報』平成28年1月号掲載)

「谷川小講堂看板」―今はなき小講堂の記憶 |谷川|

この看板は、昭和12年1月5日に開設された谷川講堂に掲げられたものです。当初から、さらに大きな講堂の建設が計画されていたため、この講堂は小講堂と呼ばれていました。しかし、廣池千九郎の生前には大講堂の建設は実現しませんでした。

湯治(とうじ)に来た会員や専攻塾生は、小講堂で行われるモラロジーの講義を聴講する決まりとなっていました。千九郎は病を癒(いや)すためには、湯治だけではなく、研修を通した精神の修養も欠かせないと考えていたのです。

 

戦後、谷川での講習会参加者が増えてきたため、昭和32年、新たな講堂が建設されました。その際、第二代所長の廣池千英(ちぶさ)は「小講堂のみにては講習を開くにあまりにも狭隘(きょうあい)となりましたので(中略)、かねて父が将来の計画の一つにしておりました大講堂を本年(昭和32年)建設したのであります」(新装版『谷川温泉の由来』18頁)と述べています。

 

開設から20年、戦後の混乱期を経て、ようやく千九郎の遺志が実現されました。現在、小講堂はありませんが、この看板が今にその記憶を伝えています。(『モラロジー研究所所報』平成27年12月号掲載)

「慈眼視衆生」- 無限の慈悲心で衆生を救う |畑毛|

写真は、大正13(1924)年、『道徳科学の論文』執筆のために滞在していた畑毛温泉・琴景舎(きんけいしゃ/高橋旅館)の離れで臥床中(がしょうちゅう)の廣池千九郎(ひろいけちくろう)です。

今回取りあげる「慈眼視衆生(じげんししゅじょう)」は、この写真の中央、部屋の奥にある掛軸に書かれていた言葉です。この言葉は『観音経(かんのんぎょう)』〔『法華経(ほけきょう)』普門品(ふもんぼん)〕 に出典のあるもので、「慈悲(じひ)のまなざしであらゆるものを視(み)る」という観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の慈悲心を説いたものです。

千九郎は、その後完成した『道徳科学の論文』の中で、「人間の慈悲心が最高道徳の実質の核心」(新版7冊目86頁)であると述べ、また「人為的に慈悲心を形造ろうとして苦心且(か)つ努力」(同98頁)してきたと述懐しています。一進一退の病状の中で、部屋に掛けられたこの言葉と何度も向き合い、慈悲心を自己に振り返って涵養(かんよう)しながら、この論文を執筆したと察せられます。

残念ながら、当時の掛軸はすでに失われていますが、現在も「『論文』執筆の部屋」にその複製品が掛けられ、執筆当時の様子を偲(しの)ばせています。(『モラロジー研究所所報』平成27年11月号掲載)

「立志説」- 志を記した漢文 |中津|

「およそ人にしてまず定むべきは、これを志(こころざし)という」で始まるこの漢文は、廣池千九郎が17歳のころに書いたものです。ところどころ、小川含章(おがわがんしょう)先生によると思われる朱色の添削があります。

「志立たざればすなわち百事成らず。ゆえに聖人はかつて志の立つべきをいう」「孔子のいわゆる『仁を求めて仁至る』の類(たぐい)なり」。聖人に倣(なら)って志を立てることの大切さを述べており、とても17歳の青年が書いたとは思えない名文です。

では、このころの千九郎の志とは具体的に何だったのでしょうか。別の漢文に「今、予の志すところは師範学校に入りて教員にならんと欲し、そして望むところは民を化し(教育し)、国家を利するにある」と記しています。結果として師範学校には入学できませんでしたが、資格認定試験に見事合格し、教員として大いに活躍しました。

千九郎のその後の人生も、聖人の生き方を模範(もはん)として、「民を化し、国家を利する」道を一貫して歩んでいます。初志貫徹(しょしかんてつ)とは、まさにこのことでしょう。(『モラロジー研究所所報』平成27年10月号掲載)

「昭和十年度 献立表」- 廣池の親心を感じるメニュー|柏|

この資料は、昭和10年に開設された道徳科学専攻塾の食堂の献立表です。

ある週のメニューを見てみると、ビフテキ、フィッシュフライ、ライスカレー、カツレツなどが並び、とても豪華です。300人以上の塾生や職員、その家族に、当時これだけのメニューを出すのは、大変なことだったはずです。

 

廣池千九郎は塾生の食事を大変重視し、在園時は必ず試食をして自(みずか)ら味を確かめ、食堂担当者に細かな指示を出しました。なんとか塾生においしい物を食べさせたいという親心を感じます。

 

本資料では、6月5日の夕食と6日の昼食の欄に、「大(おお)先生のおみやげ」とあります(大先生とは千九郎のこと)。千九郎は地方に出張した際に、自分がおいしいと感じた土地の食材をおみやげとして買って帰り、塾生に食べさせました。この時は、大量のワラビをおみやげとして持ち帰っています。

 

塾生たちは日々、心のこもった食事をいただき、勉学に励んだことでしょう。(『モラロジー研究所所報』平成27年9月号掲載)

「道徳科学の論文」- 千九郎畢生の大著述 |畑毛|

『道徳科学の論文』の初版は、昭和3年(1928)12月25日に、305部というわずかな部数で刊行されたものです。この初版本は、皇室をはじめ、当時の日本の指導者層に献上されたもので、刊行当初は一般向けの頒布(はんぷ)を予定していませんでした。また、初版出版後にはすぐに英訳をして「道徳科学」を世界の識者に提案する計画でしたが、翻訳は完成せず、海外渡航も頓挫(とんざ)しています。

実はこの初版本の前にガリ版印刷の謄写版(とうしゃばん)が存在しています。謄写版は大正15年(1926)8月17日に脱稿されたと伝えられています。この日はのちに、「道徳科学研究所の創立日」と定められました。論文執筆の場となった部屋は、現在、廣池千九郎畑毛記念館に保存されています。

『道徳科学の論文』は、現在では一般公開されており(昭和9年)、また英語版も完成(平成14年)しています。世界人類の安心・平和・幸福へ向けた千九郎の遺志は、同書を通じて引き継がれています。(『モラロジー研究所所報』平成27年8月号掲載)

「入浴の注意」- 千九郎の智慧が凝縮された注意書き|谷川|

廣池千九郎の生涯は、病気と共に歩んだ七十余年間でした。強度の皮膚神経衰弱を患(わずら)っていた千九郎はさまざまな対策を講じて病気と向き合ってきましたが、なかでも温泉療法は千九郎の身体には相当の効果がありました。千九郎は全国九十か所以上の温泉を巡り、大正12年以降は1年のうちの6割近くを温泉で過ごしています。とはいえ、それは決して気楽な道中ではありません。なぜならば、病状が悪化したときこそが、温泉を求めて彷徨(ほうこう)する命がけの旅路のときだったからです。

湯治をめぐる千九郎の数々の経験は、谷川温泉開設に遺憾なく発揮されています。今回紹介する「入浴の注意」には、千九郎が身をもって検証してきた智慧(ちえ)が凝縮されています。「門人の中には、精神的には向上したが体の弱い人がたくさんいる。したがって、そのような人々を入れて霊肉ともにあわせて救わなければならない」(『伝記 廣池千九郎』661頁)。千九郎の想(おも)いがつまったこの温泉にぜひ入浴してみてはいかがでしょうか。(『モラロジー研究所所報』平成27年7月号掲載)

「臨終の部屋」- 廣池がその生涯を閉じた場所 |大穴|

大穴記念館にある「臨終の部屋」は、もともと「記念館へようこそ」03でご紹介した「偲(しの)ぶの湯」の脱衣場としてつくられました。入浴後、休憩できるように畳が敷かれ、障子や雨戸も取り付けられました。南側の窓からは悠々と流れる利根川を展望できます。ただし、あくまでも脱衣・休憩の部屋としてつくられたので、天井板も張っていない八畳の質素な部屋です。

母屋へは渡り廊下でつながっていましたが、千九郎はこの部屋をたいへん気に入り、昼夜過ごすようになりました。体調が悪いときに母屋から偲ぶの湯に行くのは、大変だったからかもしれません。そして、ついにはここで亡くなったのです。

今から77年前の昭和13年6月4日、10時55分、家族や側近に見守られながら、波瀾万丈の生涯を穏やかに終えました。しかし、千九郎の遺(のこ)した教えは、絶えることのない利根川の水流のように、今なお多くの人々の人生を潤し続けています。(『モラロジー研究所所報』平成27年6月号掲載)

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