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About Chikuro Hiroike

廣池千九郎

について

新科学
モラロジ 
樹立と
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教育活動の

『道徳科学の論文』の執筆

執筆の経緯

廣池は人類の幸福、世界平和の実現のためには、諸聖人が実行した質の高い道徳を現代に再興する必要性を感じ、その端緒として道徳の科学的研究に取り組みます。

 これまでの研究を集大成し、さらに自らが日々道徳を実践して、その結果を研究にフィードバックし、全身全霊をかけて執筆に打ち込みました。そして大正15年8月、ついに『道徳科学の論文』の原稿が完成しました。

大正14年頃の廣池(59歳)

『道徳科学の論文』初版

昭和3年(1928)、62歳

正式名称を『新科学としてのモラロジーを確立するための最初の試みとしての道徳科学の論文』という。理論編としての第1巻と、格言で表された実践編としての第2巻からなる、約3,400ページの大著である。

モラロジーとは

廣池は自らの研究成果を従来の道徳科学(モラルサイエンス)と混同されるのを避けるため、moral(道徳)と、‐logy(~学、~科学)を合成して学術語を造り、「モラロジー」(moralogy)と名づけました。

モラロジーは「普通道徳及び最高道徳の原理・実質及び内容を比較研究し、あわせてその実行の効果を科学的に証明しようとする新科学」と定義されています。

琴景舎(きんけいしゃ)の離れ

廣池は、静岡県の畑毛(はたけ)温泉琴景舎(高橋旅館)の離れを借りて、論文の執筆にあたった。現在、廣池千九郎畑毛記念館内に離れの部屋が保存されている。

壁には論文の各章の札が貼られ、その下に関連する書籍や資料が分類して置かれている。

臥床(がしょう)中の廣池

病と向き合いながら、日々心使いの反省を重ね、1字1句に精魂を込めて 論文を執筆した。

普通道徳と最高道徳

廣池は、礼儀作法、慣習、同情、親切など、これまで社会一般で道徳と考えられてきたものを「普通道徳」と呼び、釈迦、孔子、ソクラテス、キリストなどの世界の諸聖人が実行した道徳を「最高道徳」と名付けました。

 そして人類の安心や幸福、社会の改善、世界の恒久的平和は、われわれ自身が「最高道徳」を実行することによって実現すると説いています。

『道徳科学の論文』の評価

本書には新渡戸稲造(にとべいなぞう)、阪谷芳郎(さかたによしろう)、白鳥庫吉(しらとりくらきち)の3人が序文を寄せています。それぞれ「一大頭脳(マスターマインド)の産物」(新渡戸)、「日本人としての誇りというだけでなく、現代人類の誇りである」(阪谷)、「人類の実生活に関する重要な幾多の根本原理を発見し、これを秩序立てて一つの学問体系にした」(白鳥)と述べ、本書を高く評価しています。

新渡戸稲造(にとべいなぞう) (1862-1933)

農学者、教育家。学校教育にたずさわった後、国際連盟事務次長を務める。著書『武士道』は世界的ベストセラーとなった。

阪谷芳郎(さかたによしろう)(1863-1941)

大蔵官僚、政治家、子爵。大蔵大臣、東京市長、貴族院議員などを歴任。数多くの会社、学校、団体や事業に関与し、「百会長」と評された。

白鳥庫吉(しらとりくらきち)(1865-1942)

東洋史学者。学習院教授、東京帝国大学教授を歴任し、東宮時代の昭和天皇の教育にたずさわる。廣池とは研究分野が近く、30年来の友人でもあった。

社会教育活動の展開と平和への提言

社会教育のスタート

昭和2年、廣池は東京に「プロ・デューティ・ソサイティ」(義務先行報恩協会)を設立し、モラロジーに基づく社会教育の拠点づくりを始めました。また昭和7年3月の大阪第1回講習会を皮切りに、全国各地で講習会が開かれるようになります。

大阪地方第2回講習会(昭和7年11月)

大毎講演会-東方の光

昭和6年9月には大阪毎日新聞社(大毎(だいまい))で講演会を開催し、大阪経済界の有力者、実業家をはじめ、600名を超える人々が集りました。廣池は「新科学モラロジー及び最高道徳と大阪の産業界及び経済界の立て直し」をテーマに講演を行いました。この時、同社顧問(こもん)の新渡戸稲造が「廣池先生の研究の世界的意義」と題して紹介講演を行い、廣池を西洋の思想界が待ちこがれている“東方の光”であると評(ひょう)しています。

『大阪毎日新聞』(昭和6年9月18日)

廣池の「産業・経済講演会」の案内記事が掲載された。

「​三方よし」の理念

​現在、近江商人の経営理念として知られる「三方よし」という言葉は、もともと廣池が昭和初期に使用し始めたのが最初で、その後に近江商人の理念を表す言葉として広まったことが近年の研究で明らかになりました。廣池は「三方をよくするのが道徳」などと述べ、自己利益追求のみの精神を戒めています。

世界大戦を予見した廣池

廣池は当時世界を覆っていた偏狭なナショナリズムが、やがて国際的な戦争を引き起こし、悲惨な結果を生じさせることを『道徳科学の論文』(昭和3年)の中で指摘しています。

 「第一に、常に国際間において相互に感情もしくは利害の衝突をなし、ついに悲惨なる国際戦争を惹起するごときことが出来るのであります。かくては平素すべての人間が衛生を重んじ、倹約をなし、子供を大切に育てておっても、最後の幸福を得ようとしておる予期に反して、その財産は大砲もしくは小銃の丸となって煙と消え、美麗なる都会は飛行機の投弾によって一夜の間に焦土となり、せっかく育て上げたところの子供はみな戦場の露となりおわるのであります」(新版『道徳科学の論文』⑦、298頁)

「新科学モラロジー及び最高道徳の特質」

のレコード(全91枚・182面)

昭和5年6月、廣池が社会教育用の教材として自ら吹き込んだ。

平和への提言

昭和6年9月には満州事変、同7年1月には上海事変、翌8年2月には国際連盟脱退など、日本は国際社会からの孤立を深めつつありました。そのような状況を憂い、廣池はモラロジーを「平和の専門学」と称し、国家の要人たちに対し積極的に平和への提言を行いました。提言は、斎藤實(さいとうまこと)首相や鈴木貫太郎(すずきかんたろう)侍従長などの政府要人や、荒木貞夫(あらきさだお)陸相、大迫尚道(おおさこなおみち)大将などの軍人にもおよび、当時としては命がけの行動でした。

鈴木貫太郎(すずきかんたろう)(1886-1948)

海軍軍人、政治家。海軍軍令部長、侍従長(じじゅうちょう)、枢密院(すうみついん)議長を歴任した後、内閣総理大臣となり、終戦の処理を行った。

昭和7年1月に起こった第一次上海事変の際、廣池は当時侍従長だった鈴木に3通の書簡を送り、天皇の詔(みことのり)をもって中国大陸から兵を引き上げるように提言した。