
About Chikuro Hiroike
廣池千九郎
について
古事類苑の
編纂と
東洋法制史
研究②

阿部守太郎(1872-1913)
大蔵省から外務省に転じ、参事官などを経て一等書記官となり清国に駐在する。明治45年に政務局長となるが、対中国強硬論者に暗殺される。廣池と守太郎は母親が姉妹という従弟同士だが、若いころから無二の親友として助け合ってきた。
労働問題の解決に向けて
明治40年代、廣池は当時社会的な課題であった労働問題に強い関心を持っていました。後年、次のように述べています。「私は明治43年から労働問題の道徳的解決を思い立ち、公職のかたわら日本各地の工場に入り込み、親しくその男女従業員の状態を視察しました。すると、労働者たちの知識や道徳心は予想以上に低く、資本家はこれをよいこととして、彼らに対する待遇はことごとく政策的となり、労働者たちの惨状は実に痛ましく、彼らの前途を考えると憐憫の情を禁ずることができませんでした。」廣池はこのような思いから、富士瓦斯紡績(がすぼうせき)や東洋紡績、三越呉服店などに出向いて講演や指導を行い、労資の道徳的な協調に尽力しました。
学位の取得と精神的転換
学位の取得
明治43年11月、廣池はこれまでの東洋法制史研究の集大成として、学位論文(「支那古代親族法の研究」等)を東京帝国大学に提出しました。この論文の審査は大正元年11月の教授会において行われ、前代未聞の満場一致で通過します。
12月10日、文部大臣牧野伸顕(まきののぶあき)によって、廣池に法学博士の学位が授与されました。学歴や学閥のない廣池が難関の法学博士の学位を取得したことは、新聞や雑誌にも大きく取り上げられました。

学位記
大正元年(1912)12月、46歳
この当時の学位は国から授与された。

学位受領記念写真
(大正2年4月、47歳)


『婦人世界』(大正2年2月号)
廣池は長年の春子の献身に感謝し、「私が博士になったのは妻のお蔭」という記事を雑誌に掲載した。
大正元年の大患(たいかん)
廣池は大正元年の秋ごろから体調を崩(くず)し、これまでにないような大病を患(わずら)います。12月前後には生死の境をさまようまでに悪化し、日本赤十字病院三重支部に入院しますが、一向によくなる気配はなく医者も匙を投げてしまいます。
そんな時、念願の学位授与の知らせが届いたのです。しかし廣池はこの大病を機に、これまでの猛烈な研究生活や日々の心使いを反省し、「われ幸いにして病を得たり」という心境に達します。そして生き方を根本的に改めようと次のように決意します。
「今回のような大病を患っては、とうてい命があるはずはないのですが、もしも神様が私に一年の生命を貸してくださるならば、私は人心救済に関する世界諸聖人の真の教訓に基づく前人未到の真理を書き遺しておきましょう。もし、またさらにこれより長い生命をお貸しくださるならば、(中略)全人類の安心、幸福及び人類社会永遠の平和の実現に努力させていただく所存です」
この後、廣池の精神力が病に勝ったのか、体は徐々に回復の兆しをみせ始めたのでした。
新たな道を歩む
廣池はこれまでの研究や自らの様々な体験を通して、「慈悲寛大自己反省」という道徳的精神が、日本の精神文化の淵源(えんげん)にあり、普遍的に見ても人類の幸福の基盤になることを確信しました。そして人々の悩みや苦しみを根本的に救う道を道徳に求めて、研究と教育活動を行っていくことになります。

49歳のときの廣池(大正4年12月)

『東洋法制史本論』
大正4年(1915)、49歳
明治43年の学位論文をまとめたもの。

『日本憲法淵源論』
大正5年(1916)、50歳
大日本帝国憲法の根底にある精神性の淵源を明らかにし、それに基づいた国家・社会のあり方を示そうとした。

『伊勢神宮と我国体』
大正4年(1915)、49歳
このなかで廣池はこれまでの研究成果や自らの体験をもとに、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸籠(あまのいわとごも)り神話の中で示した「慈悲寛大自己反省」の精神が歴代天皇に受け継がれ、日本の精神文化の淵源となったことを明らかにした。