About Chikuro Hiroike
廣池千九郎
について
古事類苑の
編纂と
東洋法制史
研究
『古事類苑』の編纂
編纂の様子
『古事類苑(こじるいえん)』は明治政府によって編纂された、全部で1,000巻、和装本で355冊、洋装本では51冊になるわが国最大の百科事典です。
廣池は上京するとすぐに帝国図書館、東京帝国大学図書館、宮内省図書寮(ずしょりょう)などに通いつめ、古今内外の書籍を読みあさりました。少ない日でも数十冊、多い日には数百冊の書物を調べ、関係資料を写し取り、1日数十枚の原稿を作成しました。
廣池は明治28年から約13年間にわたり編纂に従事しました。『古事類苑』の編纂には数十人の学者がたずさわりましたが、全1,000巻のうち、廣池が1人で担当したものが232巻、1巻の一部分の項目を編纂したものが16巻あり、実に全巻の4分の1以上を廣池が編纂しています。
『古事類苑』明治29年~大正3年(1896~1914)
日本の古代から慶応3年に及ぶあらゆる書籍、図画、諸家の日記や古文書などから、主要なものをすべて原文のまま写し取り、これを分類整理して、神祇部、宗教部、帝王部、政治部、法律部、文学部など30部門を立て、さらに細目に分けて、それぞれの事項の由来、使用例などを明らかにした。本書は現在も、日本の歴史や文化を研究する際の基礎的文献として利用されている。
佐藤誠実(さとう じょうじつ)(1839~1908)
国学者、文学博士。東京帝国大学講師、東京音楽学校講師などを歴任し、『古事類苑』編修長を務めた。
編纂終了記念(明治40年11月9日)
前列左から2人目が佐藤誠実。後列右から2人目が廣池。編纂の終了にあたって、佐藤は廣池の長年にわたる貢献に感謝し、秘蔵の貴重本『故唐律疏議(ことうりつそぎ)』を贈った。
「図書館博士」
廣池の読書ぶりは有名で、上野の図書館(帝国図書館)の本をほとんど読んだ人として新聞で紹介され、「図書館博士」と言われたこともありました。
廣池は後に「私の奮闘時代における状況は、どんなに寒さが厳しい日でも猛暑の日でも朝は5時から夜中の1時まで勉学に励み、疲労も病気も押して押して押し通し、1時間も休むことはなかった」と回顧しています。
旧帝国図書館
通称「上野図書館」。廣池は、この図書館の蔵書をほとんど読破したと新聞で紹介された。現在は国立国会図書館国際こどもの図書館となっている。
多彩な研究活動
法制史と文法の研究
廣池は『古事類苑』編纂に従事するかたわら、穂積陳重(ほずみのぶしげ)に指導を受けながら東洋法制史の研究に専念していました。またその基礎研究として漢文法の研究も行っていました。
明治35年9月、早稲田大学に招かれて東洋法制史と漢文法の講義を持つことになります。「東洋法制史」という言葉は、廣池が日本で初めて学術語として使用したものであり、早稲田大学での講座も最初のものでした。
穂積陳重(ほずみのぶしげ)(1856~1926)
わが国で最初の法学博士の一人。東京帝国大学法学部教授、貴族院議員、帝国学士院院長などを歴任。廣池は穂積の学識と人格に大きな影響を受けた。
『東洋法制史序論』明治38年(1905)、39歳
本書は学術誌だけでなく、新聞にも書評や紹介文が掲載され、廣池の名は一躍学会の注目を浴びるに至った。
その他の研究
『古事類苑』の編纂にたずさわる一方でこの時代、廣池は多彩な研究活動を行います。東洋法制史における基礎研究としての『倭漢比較律疏(わかんひかくりつそ)』、『大唐六典(だいとうりくてん)』や『日本文法てにをはの研究』などの文法研究、『国史大系』、『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』の校訂などを行っています。また井上頼国に勧められ、皇室の万世一系の原因についての研究も始めています。
『日本文法てにをはの研究』
明治39年(1906)、40歳
本書の目的は、日本語の「テニヲハ」という品詞を廃止して、代わりに他の品詞を設定し、日本文法の形とインド・ヨ-ロッパ語文法の形とを一致させ、日本語の習得に便宜を与えることにあった。
『支那文典』
明治38年(1905)、39歳
中国語の古典文法を体系づけたもの
『倭漢比較律疏』
明治39年(1906)
本書では、中国の『唐律疏議(とうりつそぎ)』と日本の大宝令とが、近代的な学問方法によって厳密に比較されている。刊行は昭和55年。
『大唐六典』
明治40年頃(1907)、41歳頃
中国やわが国の政治制度史研究の基本文献である『大唐六典』全巻にわたって句読訓点を施し、また所々に注記や文字の書入れをして、全部が読解できるようにしたもの。刊行は昭和55年。
東京での生活
両親の東京見物
明治35年7月、廣池は郷里から両親を招き、20日間にわたって、皇居、泉岳寺(せんがくじ)、上野公園、浅草などの東京の名所を存分に見てもらいました。母りえは、3年後に65歳で亡くなりますが、廣池は東京見物をしてもらったことで、母に対する孝養に悔いが残らなかったと後に語っています。
両親を東京に招いた際の記念写真
(明治35年7月14日)
社会奉仕活動
廣池は常に慈善活動を心がけていました。明治30年、慈善団体忠愛会(ちゅうあいかい)の設立に尽力しました。また社会福祉事業を行っている養育院(よういくいん)や福田会(ふくでんかい)への寄付もたびたび行っています。
明治31年4月に本郷(ほんごう)で大火災があった際には、春子とともに朝から何度もご飯を炊(た)いて、おにぎりをつくり被災者に配りました。この援助活動は新聞にも取り上げられ、東京府知事から褒詞を受けています。
本郷火災救援の褒詞状
(明治32年4月)、33歳
本郷区長より東京府知事からの褒詞が伝えられた。
被災者におにぎりを配る廣池夫妻(写真右奥)
(明治32年4月)、33歳
本郷区長より東京府知事からの褒詞が伝えられた。