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About Chikuro Hiroike

廣池千九郎

について

歴史家
立つ
として

​郷土の歴史を記す

『中津歴史』の執筆

廣池は教職のかたわら、中津の郷土史を書き上げることを決意します。中津の人々に土地の歴史を知ることによって、郷土愛を育んでほしいという願いがありました。当時、中津高等小学校の校内に移管されていた旧藩校進脩館(しんしゅうかん)の蔵書を読みあさり、また旧家や寺社に伝わる古文書や口碑、伝承なども東奔西走して調査しました。

そしてこれらの史料を近代の実証的な歴史研究法によって吟味し、足かけ5年の歳月を費やして明治24年12月に『中津歴史』を発行しました。

『中津歴史』明治24年(1891)、25歳

​歴史研究の目的

本書において歴史研究の根本的な課題は、多角的、実証的な研究によって「複雑極まりない人類の行跡(ぎょうせき)に一定不動の法則があることを示す」こと、と記されています。『中津歴史』は近代日本における地方史研究の先駆的業績といわれ、現在でも高い評価を得ています。

廣池は本書の執筆を機に、歴史研究を通して新生日本に貢献しようという大きな志を立て、26歳の夏、歴史の中心地である京都へ旅立つのです。

​「あーかいぶ」の提言

『中津歴史』の史料収集は困難を極めました。明治維新後、古くから伝わる記録類が廃棄されたり、散逸していたからです。そこで廣池は先人が大切に残してきた記録を後世に伝えるため、「あーかいぶ」(アーカイブズ)の設置を提言します。

アーカイブズとは記録史料を保管する施設のことで、日本では文書館や公文書館といわれています。現在、『中津歴史』はアーカイブズについて書かれた、わが国で最初の文献として知られています。

​歴史家として立つ

​『史学普及雑誌』の発行

明治25年8月、廣池は妻の春子とともに京都へ移り住み、月刊の歴史雑誌『史学普及雑誌』を発行します。

本誌の目的は、学生や教師を中心とした一般人の歴史教育と専門家に研究資料を提供することにありました。内容は史論、客説、史談、その他詠詩(えいし)、雑報などからなっており、「史論」「史談」は廣池が執筆しました。本誌には重野安繹や黒川真頼、細川潤次郎、久米幹文、三上参次、井上頼国など名だたる歴史学者や国学者が論説を寄せています。

​多彩な活動

廣池は史学雑誌を発行するかたわら、『皇室野史』などの歴史書を出版しました。また平安遷都(せんと)1100年を記念して企画された『平安通志(へいあんつうし)』の編纂に参加しました。さらに醍醐寺(だいごじ)三宝院の寺誌編纂や比叡山延暦寺の古文書の整理などにもたずさわりました。

​『史学普及雑誌』

​明治25~28年(1892~1895)、全27号

​平安神宮

明治28年、平安遷都1100年を記念して造営された。当時は京都の歴史や文化が再び見直された時期で、廣池も『平安通志』編纂や『歴史美術名勝古跡京都案内記』、『京名所写真図絵』(ともに明治28年)などを通し、歴史家として貢献をした。

『平安通志』明治28年(1895)​ 29歳

平安遷都1100年を記念して、京都市参事会によって編纂された京都の通史。

​京都での生活

雑誌で生計を立てる

廣池が『史学普及雑誌』の執筆や編集を行う一方、春子も原稿の清書や発送などを夜遅くまで懸命に手伝いました。しかし日清戦争を機に国民の歴史に対する関心はしだいに薄れ、『史学普及雑誌』は売れ行きが悪くなり、同時に家計も苦しくなっていきました。

​妙雲院

廣池夫妻は、家賃を浮かせるために頂妙寺(ちょうみょうじ)妙雲院(みょううんいん)(左京区仁王門)の一室に移り住んだ。

家族写真 (明治26年)

春子に抱かれているのは長男の千英(ちぶさ)

住吉神社での誓い

明治27年7月、廣池は雑誌の販路(はんろ)拡大のために大阪まで足を延ばします。真夏の暑いさなか、雑誌を抱えて書店を訪ね歩きました。途中、住吉神社(現在の住吉大社)のそばを通りかかると、近くの料亭から賑(にぎ)やかな笑い声や三味線(しゃみせん)の音が聞こえてきました。そのような中で、廣池は心を鎮(しず)めて住吉神社に参拝し、次の誓いを立てます。
 一、国のため、天子(てんし)のためには生命を失うも厭(いと)わず
 二、親孝心
 三、嘘を言わず、正直を旨(むね)とす
 四、人を愛す
 五、住吉神社のご恩を忘れず参拝

現在の住吉大社

大阪市住吉区にある旧官幣(かんぺい)大社で、戦前までは住吉神社と称していた。ここで廣池は5か条の誓いを立てた。

京都での苦学

廣池は後年、京都での苦学の様子を次のように語っています。「風呂へも入らなかった。時々水をあびてすませてきた。ナマ魚は、一年に一回も食べたことはない。ヒモノも食べたことはない。飯と汁だけでやってきた。しかし、それにも屈せず勉強し、歴史や法律を独学をもって研究し、また英語もドイツ語も習ってきた」。このような猛烈な学究生活によって、廣池の学者としての実力は着実に高まっていきました。

新たなる道へ

歴史研究に邁進する廣池でしたが、明治26年夏に読んだ法学者穂積陳重(ほずみのぶしげ)の論文に触発され、東洋法制史の研究を始めます。また中津時代から交流を続けてきた国学者井上頼国からの誘いで、『古事類苑(こじるいえん)』(百科事典)の編纂に従事することになり、明治28年29歳の時に上京しました。

井上頼国 (1839~1914)

国学者、文学博士。国学院、学習院の教授を歴任。『古事類苑』の編修顧問を務めた。京都の妙雲院を訪ね、廣池の才能を見出し『古事類苑』の編纂に誘った

​『古事類苑』編纂助修の委嘱状

明治28年(1895)8月、29歳

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