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About Chikuro Hiroike

廣池千九郎

について

教育愛に
燃えた
青年教師

少年時代の廣池千九郎

廣池家

明治維新の直前、慶応2年(1866)3月29日、廣池千九郎は豊前国(ぶぜんのくに)下毛郡(しもげぐん)鶴居村大字永添(現在の大分県中津市永添)に半六(はんろく)・りえ夫妻の長男として生まれました。当時、廣池家は中程度の農家で、農業のかたわら養蚕や和紙の原料である三椏(みつまた)などを植えて生計を立てていました。
 半六はたいへん信仰深く、教育に理解がある父親でした。りえは、親孝行で中津藩から表彰されたこともある家の出身で、「孝は百行(ひゃくこう)の本(もと)なり」(親孝行はすべての行いの基本である)という言葉を子供へのしつけの中心としていました。

父 半六

母 りえ

廣池の生家

​廣池千九郎中津記念館の敷地内に保存されている。

少年時代

廣池は、朝は馬草を刈ってから学校に行き、帰宅してからは農業の手伝いをするなど、日々親を助けました。学問にもたいへん熱心で、馬を引く間も本を離さず勉強したといいます。明治8年、永添小学校に入学して漢文を学び、卒業後、旧中津藩主奥平昌邁(おくだいらまさゆき)や福澤諭吉(ふくざわゆきち)らが設立した中津市学校に編入学しました。
中津市学校を優等の成績で卒業した廣池は、14歳で母校永添小学校の助教(代用教員)になります。

永添小学校(法華寺)

法華寺(ほっけじ)を借りて教室とし、古野静枝が教師を務めた。

廣池が育った中津

中津地方の北部は瀬戸内海の周防灘(すおうなだ)に面し、南部の山間部は「耶馬渓(やばけい)」とよばれ景勝地として有名です。気候は温暖で、古くから農業が盛んな土地でした。
天正15年に豊臣秀吉により黒田孝高が領地を与えられ、中津城を築城します。その後、細川氏、小笠原氏、奥平氏の治世を経て、明治を迎えます。歴代藩主の中には学問や文化の普及に熱心な人物も多く、中津の文化的な風土を育みました。
また中津は、蘭学者の前野良沢や文明開化の立役者である福澤諭吉などの活躍に見られるように、進取の気風に富んだ土地柄でもあります。

恩師との出会い

初めての挫折

明治16年7月、17歳の廣池は正教員になるために3年間勤めた永添小学校を辞め、大分県師範学校の受験に挑みました。しかし算術の点数が足りずに不合格となります。そこで漢学者小川含章(おがわがんしょう)の私塾である麗澤館(れいたくかん)に入塾し、受験勉強を続けました。

小川含章(1812~1894)

文化9年、日出(ひじ)藩に生まれる。名は弘蔵(こうぞう)、号を含章と称す。帆足万里(ほあしばんり)に学び、生野(いくの)学問所(現在の兵庫県生野)に司鐸(したく)(校長)として赴任。その後、杵築(きつき)藩や日出藩に出仕。明治維新後、大分に私塾麗澤館を開いた。

​小川含章(おがわがんしょう)の教え

含章は漢学だけでなく養蚕なども授業に取り入れ、実学を尊ぶ教育を行いました。また明治に入り西洋化が進むなか、国の歴史や伝統文化を学び、日本人としての自覚を持つことの大切さを塾生に説きました。このことは後に廣池が日本の国柄を研究する大きなきっかけとなります。

来迎寺

麗澤館は廣池が入塾した当時、大分市長池の善巧寺(ぜんぎょうじ)にあり、後に東新町の来迎寺に移った。塾生は数百人を数え、その多くは塾内に住み込み、子弟同学で漢学を中心とした勉学に励んだ。

恩師の姿

ある日、廣池が夜中に目を覚ますと、含章の部屋にはまだ明かりがついており、含章が机に向かって読書をしている姿が見えました。当時72歳の師から、廣池は終生勉学に励むことの大切さを気づかされました。後に廣池は、著書『新編小学修身(しゅうしん)用書』(明治21年)においてこのエピソードを取り上げ、「人は老いても勉むべし」という教訓を記しています。

『新編小学修身用書』全3巻

明治21年(1888)、22歳道徳教育の教材集。近代日本を担う人材に必要な「学問と実業とを兼ね愛する念」を育てることを主眼とした。歴史的人物だけでなく無名の一般人や身近な人物の善行、創意工夫などのエピソードを集め、児童に親しみと説得力のある内容となっている。

廣池の教育改革

​応請試業に合格

廣池は受験の失敗にもくじけることなく、志を貫きました。明治18年、「応請試業(おうせいしぎょう)」(学力認定試験により卒業資格を得ることができる制度)に挑戦します。そして試験に見事合格し、19歳で念願の訓導(くんどう)(正教員)となり、耶馬渓(やばけい)の近くにある形田小学校へ赴任することになりました。

「師範学校卒業証書」

明治18年(1885)、19歳

夜間学校の設立

形田小学校では、家の手伝いで通学できない農家の児童のために、夜間学校を設立します。授業の内容は役所の公示の読み方、度量衡(どりょうこう)や貨幣の数え方など日常生活に使える実用的なものでした。このような取り組みは親たちからも歓迎され、夜間学校は高い評価を得ました。

旧樋田村

廣池が夜間学校を開いた村。現在の本耶馬渓町樋田。

「仏坂の別れ」

廣池は2年間勤めた形田小学校から転勤することになりました。別れの日、耶馬渓にある仏坂(ほとけざか)で村人たちが宴(うたげ)を開いてくれました。宴が終わっても村人たちは名残を惜しみ、山向こうの斧立(おのだて)神社までついてきます。そこでまた宴となり、日が暮れてようやく別れを告げました。この情景は教育者としての廣池に深い感動を与えました。

明治期の仏坂

廣池の試み

明治21年、中津高等小学校に転任した廣池は、児童の職業訓練にも役立つ裁縫や手芸、図画、工作などを行う手工科(現在の技術家庭科)を各学校に設置するために活動しました。また校内に寄宿舎をつくり、自らも住み込んで児童の世話をしました。朝夕無料で特別授業を行ったため、児童は各クラスの首位を占めるようになり、寄宿舎に入る児童が増えていきました。

大分県教員互助会の設立

明治18年5月、廣池は大分県共立教育会に入会し、県全体の教育改革にもたずさわります。当時の教員は待遇が悪かったため志望者が少なく、離職者は多いという課題がありました。そこで廣池は教員互助会の設立を提言します。
明治23年11月、大分県共立教育会の総会で設立の趣旨が認められ、この時は互助会の組織そのものはできませんでしたが、廣池の提案は付帯事業として取り入れられました。教員を対象とした互助活動としては全国で初めてのものです。
このように廣池は教師として単に授業や教務を行うだけではなく、大分県下のさまざまな教育の改善に尽力しました。

「大分県教員互助会設立の主意書」

明治22年(1989)、23歳

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