About Chikuro Hiroike
廣池千九郎
について
新科学
モラロジ
樹立と
展開②
教育活動の
の
道徳科学専攻塾の開設
学校教育のスタート
昭和10年4月、廣池は現在の千葉県柏市に道徳科学専攻塾を開設し、かねてからの念願であったモラロジーに基づく学校教育をスタートさせます。専攻塾は、私立学校令に基づく各種学校に位置づけられ、定員120名の本科と定員180名の別科からなり、両科とも当時の高等教育機関としては珍しい男女共学で全寮制でした。
大講堂で行われた開塾式(昭和10年4月2日)
本科と別科
本科は中等教育修了者を対象とし、語学教育とモラロジーを基本にした授業を行いました。別科は修業約3カ月半で、社会人を対象に毎年2回、春と秋に開講しました。モラロジーの理論の学習と実践力を養成することを目的とし、入塾者には中小企業の経営者も多数いました。
現在、本科は学校法人廣池学園が運営する、麗澤(れいたく)大学、麗澤中学・高等学校、麗澤瑞浪(みずなみ)中学・高等学校、麗澤幼稚園へと発展し、別科は公益財団法人モラロジー道徳教育財団が主催する生涯学習講座へと受け継がれています。
開塾当時の食堂
塾生だけでなく、教師やその家族も利用した。
図書館で学ぶ塾生たち
「以経説経(けいをもってけいをとく)」(聖人の教えを学ぶには、注釈書や解説書に頼らず、直接に原典に当たることが大切であることを示す)の扁額(へんがく)が掲げられている。
麗澤大学図書館
「以経説経」の扁額が現在に受け継がれている。
教育理念
専攻塾は、知識と品性(道徳性)を兼ねそなえた人物をつくる「知徳一体」の教育を理念としました。そのため教師は講義を行うだけでなく、キャンパス内に居住し、全人格をもって塾生を育てる感化教育を重視しました。
また寮生活は各自が利己主義を捨てて他人を思いやり、共同生活を営むことによって人格の形成を実現する重要な教育の場と位置付けられていました。
寮での塾生たち
寮はお互いの品性を高め合う教育の場であった。
麗澤大学グローバルドミトリー
専攻塾時代の伝統を受け継ぎつつ、「国際的な学びの場」となった現在の大学寮。
要人の来塾
名士たちの来塾
廣池は専攻塾に国家の指導者や名士を招きました。塾生の教養を高めるという目的と要人たちにモラロジーを理解してもらい、国難を乗り切る指針としてほしいとの思いからでした。
開塾の翌月には孔子(こうし)とその弟子顔回(がんかい)の子孫一行が来塾しました。そのほか、斎藤實(さいとうまこと)前首相や若槻礼次郎(わかつきれいじろう)元首相などの総理大臣経験者が来塾しています。斎藤は早くから道徳科学の理解者であって、朝鮮総督時代には、廣池の講演会や講習会に力を貸しました。
斎藤實
(1858~1936)
海軍軍人。海軍大臣や朝鮮総督などを歴任し、第30代内閣総理大臣を務めた。
若槻礼次郎
(1866~1949)
貴族院議員、大蔵大臣、内務大臣を歴任し、内閣総理大臣を2度務めた。
大講堂で塾生の挨拶を聴く斎藤實
(昭和10年11月10日)
大講堂で挨拶する若槻礼次郎
(昭和11年7月6日)
賀陽宮恒憲王のご来塾
昭和12年には2度にわたり、皇族の賀陽宮恒憲王(かやのみや つねのりおう)がご来塾されました。恒憲王が廣池の門人の話を聞いてモラロジーに関心を持たれ、ご来塾が実現しました。皇室の恩に報いることが、道徳実践の中心であるとの信念を持っていた廣池は、精魂を傾けてお迎えします。また廣池は、恒憲王に10回にわたるご進講を行いました。恒憲王は後に「最初は、むずかしかった。しかし、だんだんモラロジーこそ国を救う学問だという確信を深めました。ですから、その後10回にわたって博士の講義を承ったのです。特に慈悲寛大自己反省のお話には深い感銘を受けました」と回顧されています。
賀陽宮恒憲王ご一行(昭和12年4月18日)
前列左から1人目が廣池、3人目が恒憲王。ご家族を伴ってご来塾された。
貴賓館増築を視察する廣池
貴賓館は国の指導者層の来塾に備えて建築された。ここで斎藤實や若槻礼次郎などの首相経験者や皇族の賀陽宮恒憲王を接待した。
現在の貴賓館内部
晩年の廣池千九郎
谷川講堂の開設
廣池は昭和12年1月、現在の群馬県利根郡みなかみ町の谷川温泉に、療養施設と社会教育施設を併設した谷川講堂を開設しました。廣池は「人間には精神、経済、肉体をむしばむ3つの病がある。そのうち精神と経済の病の予防薬としてモラロジーをつくった。残る肉体の病を防ぐのがこの谷川温泉である」と開設の理由を述べています。
開設当時の谷川講堂
現在は、廣池千九郎谷川・大穴記念館としてモラロジー教育の重要な施設となっている。
臨終の部屋
現在、廣池千九郎谷川・大穴記念館として保存されている。
富岳荘の建設
昭和13年2月、畑毛温泉に別荘を建て、富岳荘(ふがくそう)と名づけました。また『道徳科学の論文』を執筆した離れの部屋を琴景舎(きんけいしゃ)(高橋旅館)から譲り受け、富岳荘の敷地内に移転。全身全霊をかけて論文を執筆した部屋を遺し、「最高道徳の真の姿を見て還(かえ)ってほしい」との思いからでした。
現在の富岳荘
執筆の部屋と共に廣池千九郎畑毛記念館として保存されている。
死去
昭和13年4月15日、賀陽宮恒憲王への最後のご進講を終えた廣池は、衰弱しきった身体を癒(いや)すため、谷川温泉に移ります。そこで辞世を認(したた)め、モラロジーを学ぶ人たちへの遺言としました。
その後、大穴温泉(うのせ温泉)に移り療養を重ねますが体調は回復せず、昭和13年6月4日、廣池は72歳でその生涯を終えました。
晩年の廣池千九郎(昭和10年1月)
辞世
とこしべに我たましひは茲(ここ)に生きて
御教守る人々の生れ更るを祈り申さむ
モラロジーの父