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コラム

生涯と業績

本シリーズでは廣池千九郎の生涯と業績を、エピソードを交えながら詳しく紹介します(月毎に更新)。

No.30『中津歴史』の発行  明治24年(1891) 【25歳】

明治24年、廣池は『中津歴史』を発行した。本書は当時としては珍しい地方史の書籍であり、廣池にとって初の学術書であった。廣池は本書の中で地方史研究の意義を2つ挙げている。身近な歴史を知らせることによって、地域に伝わる伝統的文化の重みとその継承への情熱を抱かせること。また、地方の歴史を確定することで国史(国民教育の根本資料)編纂に資すること。以上のような教育的な観点があって、本書はまとめられた。

廣池は、中津高等小学校にあった旧藩校の進修館の蔵書閲覧を皮切りに、地域の古老の元に足を運ぶなど、熱心に調査を行っている。資料集めに苦労した経験から、アーカイブズ(文書館)の必要性を日本で初めて主張したことも、本書の特徴の1つである。この時期、廣池は、寄宿舎の世話や教員互助会設立のための活動、結婚など、多忙を極め、体調も崩す時期もあった。そのような中でも、あしかけ5年をかけて本書を書き上げた。

画像は『中津歴史』

No.29 教員互助会の設立  明治23年(1890) 【24歳】

形田小学校赴任直後の明治18年、廣池は大分県共立教育会の会員になっている。同会は、教育の普及、改良、向上をはかることを目的として創設されたもので、大分県教職員組合の前身であった。廣池は、ここを舞台に教育改革のために積極的に活動した。中でも特筆すべきは、教員互助会の設立に尽力したことである。明治初期の教員の報酬は低く、過労で早死にする人も出るなど、教員の労働条件は劣悪であった。そのため教員志望者は少なく、離職者も多かった。こうした状況を見かねた廣池は教員を定着させ、教育改善を図るために、教員互助会の設立を訴えた。廣池の物心両面の努力によって実を結び、大分県教員互助会は共立教育会の附帯事業として明治24年より開始された。当時、県単位で組織された教員対象の互助会はなく、全国に先駆けた存在であった。

​画像は「大分県教員互助会の主意書」

No.28  大洪水や大火での災害救援活動  明治22年(1889) 【23歳】

明治22年、下毛の周辺で大洪水が起こった。家屋田畑も流失し、大きな被害が出た。廣池は田舎新報社(地域の新聞社)の依頼を受けて、義捐金の募集に奔走した。

明治25年には廣池が居住していた金谷町の隣、宮永村で大火が生じ、死傷者が出る惨事となった。廣池は直ちに檄文を書き、救援活動に乗り出した。以下はその一部である。「大火のあとの無残な光景を見よ(中略)馬は死に、人は傷ついて重傷の者は10人に達し、瀕死の重傷を負った者も数名いる。雨霧にさらされ、飢餓に苦しむ者は実に300名を超えるという。(中略)皆さんが心血を注ぐべきところは、この焼失した村である。皆さんの涙を注ぐべき対象はこの焼失した村であると知ってほしい」。

以上のように、廣池は被災者に手を差し伸べることを常に心がけた。

画像は「宮永村大火の檄文」

No.27 地域に貢献した人の顕彰  明治22年(1889) 【23歳】

廣池は生涯を通じて社会貢献活動を行った。特に中津では、災害時の活動のほか、地域発展に貢献した人々を顕彰する活動が挙げられる。例えば、永添小学校時代の恩師である古野静枝(ふるの せいし)の碑を建設したことや、中津地方の養蚕業発展に貢献した西幸二郎を世間に知らせたことが挙げられる。中津の養蚕が盛んになったのは西の功労であると、廣池は著書『新編小学修身用書』や『中津歴史』に綴っている。また廣池は、生活に困窮していた西を、義捐金を募って救済し、そのことで下毛郡から表彰を受けている

No.26 春子との結婚  明治22年(1889) 【23歳】

明治22年7月、廣池は角春子(すみ はるこ)と結婚した。このとき廣池は23歳、春子18歳。廣池も春子も他の縁談は少なくなかったが、2人は互いに理想が適ったようだ。

角家は、江戸時代には上士(上層階級の武士)であった。明治になってから武士は「士族」となり、それまでの権益がなくなったことで、衰退する家が多くあった。角家も例外ではなかった。春子は家計を楽にしようと、家事の手伝いをしながら裁縫を習い、師の代稽古ができるほどに上達した。裁縫の腕前も、廣池家には好条件の1つであった。

廣池家は祖母、両親、弟妹5人という大家族であった。廣池は中津高等小学校の寄宿舎に寝泊りして週末に帰宅、春子は嫁ぐとすぐに家族の世話と農作業に追われるという日々を送った。武家の娘であった春子は慣れない農作業やしきたりの違いなどで、この頃いろいろと苦労したようだ。約1年半後、廣池夫妻は学校に近い金谷(かなや)町に新居を持った。生活は決して楽ではなかったが、2人は力を合わせて生活していく。

No.25 『小学歴史歌』の発行  明治22年(1889) 【23歳】

廣池は、明治22年に『小学歴史歌』を発行した。本書は歴史に関する最初の著述であり、神代から明治までの日本歴史の主要な出来事を小学生にも覚えやすいように七五調で記述したものである。緒言には、本書の意図として、「歴史は単に各時代の人物や社会のありさまを知るだけではなく、これによって先人の言行を反芻(はんすう)し、巨視的には国家を治め、微視的には一身を処する鏡となるものである」などと記されている。

No.24 歴史への関心──旧藩校の進脩館の蔵書を読む 明治22年(1889) 【23歳】

廣池は校務のかたわら、歴史研究を進めた。廣池は歴史研究の課題を、過去の事実をそのまま明らかにするだけでなく、そこから普遍的な法則を見いだすことにあるとしていた。そして、歴史的事実を長い尺度で考えていけば、人間の力ではいかんともしがたい「事実」、つまり「一定不動の法則」を見いだすことができると考えていた。

当時、廣池が勤務していた中津高等小学校には、旧藩校の進脩館の蔵書数千部が移管されていた。廣池の本格的な歴史研究は、この蔵書閲覧から始まったといっていいだろう。これは、廣池の学力をおおいに高め、自信を持たせることになった。このとき廣池は中津の郷土史を書くという目的を持っていた。 

No.23 「問題児」の性向調査書を全国に発送  明治22年(1889) 【23歳】

明治22年、廣池は『性質痴鈍及び素行不正生徒原因調査書』を全国の教育者に発送し、調査を行っている。いわゆる「問題児」の性向調査である。この調査書は、体質、性格、親子関係、習癖、友人関係、日常の飲食物などを詳細に尋ねたものである。この調査結果は残っていないが、ここには家庭環境の重要性、生徒の人格や学力形成の原因について客観的なデータを把握し、より有効な教育を行おうという熱意がにじみ出ている。

No.22『修身口授書外篇』に見られる教育の工夫  明治21年(1888) 【22歳】

 廣池の著述に『改正新案小学修身口授書外篇』(稿本)がある。これは出版には至らなかったが、尋常小学校1年生に修身を教えるための教師用の指導書であった(※『新編小学修身用書』巻之一 平成26年復刊 所収)。特徴は、暗記しやすい対句の格言を用い、格言の前半には児童が日常経験するようなことを記し、後半には教えたい徳目を示して、生徒が記憶しやすいよう工夫がなされている。授業にあたっては格言の意味を説明し、また児童と会話することによって児童の理解を深め、最後に各自のノートに書かせる、などと指示している

No.21 道徳教育の教材集『新編小学修身用書』の発行  明治21年(1888) 【22歳】

明治21年、廣池は『新編小学修身用書』全3巻を編纂した。本書は修身(道徳)教育の教材集であり、内容は子どもたちにとって身近な人物の実話を集めたエピソード集であった。当時、廣池は功利主義がはびこっていたことを大いに憂えていた。そのような中で廣池は、実業と学問をともに愛する心を育み、実社会に貢献できる人間の育成をめざして、本書を執筆したのである。

 本書は平成26年に復刻版として再販されている(画像)。

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