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コラム
生涯と業績
本シリーズでは廣池千九郎の生涯と業績を、エピソードを交えながら詳しく紹介します(月毎に更新)。
No.40 廣池の研究姿勢と正倉院の拝観 明治26年(1893) 【27歳】
廣池は研究において実地調査を重んじている。例えば、南朝の事跡を調査するために、京都付近から畿内一体、紀州までも事跡を探った。研究に対するこのような姿勢は終生変わらなかった。
明治26年の8月に廣池は正倉院の御物を拝観する許可を得た。当時、正倉院の拝観は高位高官もしくは著名な専門家しか許されなかった。このときの記録は『史学普及雑誌』の紙面に活かされている。
No.39 歴史から法制史研究へ…… 明治26年(1893) 【27歳】
研究を進める中で見識を高めていった廣池は、関心を歴史学から法学へと広げた。歴史よりも法律のほうが社会に貢献できるとの考えであった。そして明治26年の夏に読んだ法学博士穂積陳重(ほづみ のぶしげ)の論文がきっかけで、廣池は東洋法制史の研究を専門とすることを決めた。この論文によって、中国法体系の研究が未開拓であると感じ、また得意の 漢学が活かせると思ったからである。経済的に困窮していた状況であったが、専門書を購入して研究にとりかかった。

No.38 史実に基づく皇室研究 明治26年(1893)【27歳】
廣池は、明治26年に『皇室野史』を発行した。当時、史実に基づいて皇室を研究した書物はほとんどなかった。ことに武家政権時代における皇室の実状を説いたものは皆無であった。このことから廣池は、武家時代の皇室に焦点を当て、皇室と国民との関係を実証的な研究によって明らかにしようとした。神社、仏閣、旧家などに出入りして未公開の古文書を調査し、富岡鉄斎の所蔵する豊富な書籍を渉猟してこの書を完成させた。『皇室野史』に対する書評は、多くの雑誌や新聞に取り上げられ、おおむね好意的に迎えられた。

No.37 このころの交流関係 明治26年(1893) 【27歳】
京都において廣池は、雑誌編集や著述を通して人物交流を広げている。その中で最も影響を受けたのが、文人画家富岡鉄斎(とみおか てっさい)である。出会った当時、鉄斎は57歳、廣池は27歳であった。廣池と鉄斎は家族ぐるみで交流を交わした。鉄斎は蔵書家としても著名で、古書の収集家でもあった。自分の蔵書をなかなか他人に見せない人であったが、廣池には、写生旅行中1ヶ月余りの留守番を頼み、その間、蔵書の閲覧を許している。よほど廣池への信頼が厚かったのであろう。
このほか京都で廣池は、『広辞林』『小辞林』の編者として知られている言語学者の金沢庄三郎(かなざわ しょうざぶろう)や、六角博通(ろっかく ひろみち)子爵らと交流を持っている。六角は幕末・明治の有職家であり、本草学者としても名高く、宮殿研究の専門家であった。廣池は、六角に国史研究の指導を受け、蔵書を見せてもらう間柄になった。
画像は富岡鉄斎。
No.36 京都における生活 明治26年(1893) 【27歳】
廣池の人生において、京都にいた頃が最も経済的に苦しかった時期である。明治26年2月に長男千英(ちぶさ)が生まれた。明治27年ごろには、生活苦のために転居せざるを得なくなり、六畳一間での生活となった。廣池は執筆と編集に努め、春子は家事に加え、原稿の清書、雑誌の発送も手伝った。
貧苦の中でも、廣池の研究心は衰えることがなかった。毎朝5時に起き、夜12時まで勉強した。このころ歴史だけでなく、法律や国学の研究、英語やドイツ語の学習にも取り組んでいた。
No.35 歴史に関する著述 明治25年(1892) 【26歳】
毎月の『史学普及雑誌』刊行に加え、廣池は京都在住中に次々と著作を出版した。『日本史学新説』『史学俗説弁』『新説日本史談』などである。『日本史学新説』は、明治時代の歴史学者が従来の見解の誤りを指摘している新説を集めたもの。『史学俗説弁』では、歴代天皇についての史説の誤りを指摘している。『新説日本史談』は青少年向けの通俗書というべきものである。扱われている人物は、豊臣秀吉、山田長政、石川五右衛門などで、読者の興味をそそるものを取り上げ、時に道徳的教訓をまじえている。
No.34 掲載内容から知る「廣池の歴史観」 明治25年(1892) 【26歳】
『史学普及雑誌』を通じて、当時における廣池の歴史観、人物観を知ることができる。例えば、新井白石をとりあげ、『大日本史』を編纂した徳川光圀(みつくに)の精神と、『日本外史』を著した頼山陽(らいさんよう)に匹敵する漢文の素養を持っているとした。さらに、国語、地理、経済、有職、制度等の諸学に通じ、わが国の歴史を進歩させたと絶賛している。本居宣長(もとおり の りなが)については、日本の国柄を研究し、それを天下後世に説明した人物であり、国学の真精神は宣長にあると評している。

No.33 月刊誌『史学普及雑誌』の発行 明治25年(1892) 【26歳】
京都に到着した廣池は直ちに『史学普及雑誌』の発行にとりかかった。当時、史論が流行し、新しい史学雑誌や歴史関連の書籍が次々に発刊された。廣池も研究と生活の両方を支える手段として、中津にいたときから、本誌の発行を企画し準備を進めていた。「歴史には一定の法則がある」と考えていた廣池は、その法則によって、読者の国民精神の高揚に資するというねらいがあった。本誌の中で廣池は「史論」「史談」を通して、自身の歴史観や人物観を展開した。一方、寄稿論文で構成される「客説」では、多くの歴史学者、国学者などの論説を掲載している。これらの寄稿者を見ると、廣池の交流範囲はかなり広かったようだ。
画像は『史学普及雑誌』
No.32 京都へ 明治25年(1892) 【26歳】
廣池夫妻は、親族、教え子らに見送られ、中津港から海路京都へ向かった。廣池は、今こそ自分の力を試す時だと思いを強くした。歴史の研究とその成果によって、国民の精神を強固にしようと考えていた。歴史ある京都なら、資料や史跡も多く実地の調査もできるという考えであった。
No.31『中津歴史』の成功と歴史家への転身 明治25年(1892) 【26歳】
『中津歴史』の定価は1円。当時の物価からするとかなり高価であった。しかし、純利益が100円出たことから、かなり多くの人々に読まれたことが分かる。東京帝国大学歴史学教授重野安繹(しげの やすつぐ)は「記事は正確で細大もらさず、実に有益な著書である」と述べている。森鹿三(もり しかぞう、1906-1980、京都大学名誉)教授は「まさしく空前の、日本史研究における瞠目(どうもく)すべき先駆的業績である」と評価している。
本書の成功は、廣池が歴史家として自立する自信になり、京都へ進出する資金源にもなった。明治25年、廣池夫妻は中津をあとにして、京都に渡った。



