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コラム
生涯と業績
本シリーズでは廣池千九郎の生涯と業績を、エピソードを交えながら詳しく紹介します(月毎に更新)。
No.60 画期的な文法書『支那文典』の発行 明治38年(1905) 【39歳】
廣池は漢学塾で学んでいた頃から “漢文も英文法のようなルールが整っていたら、どれだけ便利だろう”という考えを持っていた。そのような思いが根底にあり、専門学東洋法制史の基礎研究として資料を収集しつつ、整理しながら「支那文典」の原稿をまとめた。この研究が認められ、廣池は早稲田大学の講師に就任している(NO.56参照)。
『支那文典』は明治38年に大学の講義録として出版された。特徴はヨーロッパの語法を参考にして漢文を品詞に分け、その規則性を示している点にあり、また引例が多様で精確であることから、その学習しやすさが評判となった。そのため本書は昭和2年まで版を重ね、20年のロングセラーとなって広く読まれている。

No.59 『日本文法てにをはの研究』の発行 明治39年(1906)【40歳】
日本文法に関する研究書。廣池は本書の中で、より効率よく語学の学習ができるようにという教育的な目的から、日本文法の改良を主張した。具体的には日本語の「テニヲハ」を、文法で最も整備されている英文法の範疇に分類することを提案している。そうすれば学生は英文法・漢文法・国文法、それぞれの規則を別々に学ぶ必要が無くなるというのである。日本語の用法を他の言語と共通の品詞に再構成しようとする試みは、当時としては画期的ではあったが時代を先取りしたためか、学界では受け入れられなかった。
画像は『日本文法てにをはの研究』

No.58 『東洋法制史序論』の発行 明治38年(1905)【39歳】
本書は、廣池が初めて公表した専門学の研究成果である。「東洋に於ける法律と云ふ語の意義の研究」という副題のとおり、廣池は「法律」という言葉の意味を、歴史をさかのぼって説き明かした。日本と中国における語義の比較によって、日中の文化的な背景の違いを述べている。特に中国において「法律」の源は「中正・平均」という観念に行き着くという考えから、古代中国の道徳思想について論じている。独創的な主張は内外から高く評価され、廣池は学界から大いに注目を浴びた。東京帝国大学の戸水寛人(とみず ひろんど)教授は、「東洋の奇跡にして天下の奇書」と述べている。
画像は『東洋法制史序論』

No.57 穂積陳重の指導 明治35年(1902) 【36歳】
明治35年頃から廣池は法律学の権威である穂積陳重(ほづみ のぶしげに師事した。京都で穂積の論文を読み、専門を歴史学から法律学に定めた廣池(NO.39参照)は上京後、紹介状を手に穂積を何度も訪ねた。しかし、穂積が多忙のため、なかなか面会はできなかった。ようやく叶った短時間の面会で、それまでの研究成果を認められ、今後の指導の確約を取り付けた。穂積は比較法学と歴史法学を実証的に取り組むよう促し、今後法律学の進歩には自然科学の観点と研究法が必要であるというような示唆も与えた。そのアドバイスに従い、廣池は法学の研究を深めつつ、帝大の医科・工科・農科などの研究室にも顔を出して知識を蓄えた。この時代に培った自然科学の知見は、後に道徳の学術的な研究に活かされる。
写真は穂積陳重。
No.56 早稲田大学と廣池 明治35年(1902) 【36歳】
明治35年に廣池は早稲田大学の校外講師を委嘱され、「支那文典」の講義を担当した。廣池は専門学「東洋法制史」の基礎研究として漢文法の研究に取り組んでいた。大量の文献を読み込み、精確に整理して形となったものが「支那文典」であった。講師に抜擢されたきっかけは、中国古典を学術的に説ける人材を探していた同大の担当者に、この研究が評価されたことによる。同38年に廣池は専任講師に昇格し、日本で初めて「東洋法制史」を講じている。同43年に辞職するまでに、早稲田大学を通じて古典文法や東洋法制史などの研究成果を発表することができた。後に廣池は「早稲田大学は私の学問上の恩人であり、私の学問上の慈母である。また学問上第二の故郷ともいえる。」と述べている。
No.55 変わらな い親孝行 明治35年(1902) 【36歳】
廣池の篤い孝心は東京に出てからも変わることはなかった。珍しい菓子が手に入ると子どもには与えず、郷里の両親へ送った。子どもは将来食べる機会はあるが、自分たちより余生が短い親はそうはいかない、というような思いからであった。
明治35年、廣池は郷里から両親を招き、東京見物や善光寺参りなどをしてもらった。両親は旅行というプレゼントを満喫して帰省した。両親の上京から、3年後に母・りえは65歳で亡くなるが、廣池は東京見物をしてもらっていたことで母に対する孝養に悔いが残らなかったと語っている。

No.54 『高等女学読本』の編纂 明治33年(1900)【34歳】
明治32年に高等女学校令が発布されると、実践女学校や女子英学塾(現 津田塾大学)、日本女子大学校などの女学校が開学した。こうした社会の動きに応じて、廣池は『古事類苑』編修メンバーの協力のもと、女学校用の教材を作成している。
同33年発行の『高等女学読本』(華族女学校長 細川潤次郎 校閲)は国語や道徳教育のための講読用テキストである。文体は読みやすく理解しやすいよう現代文を採用し、内容は女性として大切にすべき徳目や生活に役立つ教養など幅広く取り上げている。教員時代から女子教育に関心が高かった廣池は、実学尊重の立場で本書を編纂した。この他、『女流文学叢書』(明治34年)を『古事類苑』の同僚との共同編修で刊行し、翌年には『高等女学読本参考書』を編纂している。
画像は『高等女学読本』

No.53 編修長 佐藤誠実と廣池
編修員の給与は原稿用紙1枚60銭の歩合制であったため、納めた原稿の枚数が多いほど増えた。廣池は京都で経済的に苦労したこともあり、効率よく原稿を書き上げた。しかし、速成した原稿は、徹底的に質を重視する佐藤誠実(じょうじつ)編修長の検閲をなかなか通過しなかった。廣池は、状況を見かねた井上頼国に原稿の粗製を注意され、気持ちがお金にいっていたと反省した。このことを佐藤に謝ると「良いところに気づいてくださった。どうか一生懸命やってください」と言われ、今まで書いた原稿を全て返してもらった。修正して再提出すると、検閲は全て通過した。
画像は佐藤誠実(明治40年)

No.52 猛烈な学究生活──新聞で紹介される 明治33年(1900) 【34歳】
廣池は、他の編修員よりも非常に多くの原稿を執筆した。加えて古典文法と東洋法制史の研究を併行していたため、猛烈な学究生活であった。廣池の多読ぶりは、当時の新聞にも紹介されるほどで、東京帝国図書館で蔵書をほぼすべて閲覧したので「図書館博士」と言われたとか、「上野の図書館の書物をほとんど閲覧した人がいる。それは廣池千九郎大人(うし)という人だ」(『万朝報』)などと報じられた。
画像は、文中における「上野の図書館」(現 国際子ども図書館)。
No.51 廣池の号について
明治30年、廣池は「鵬南」(ほうなん)という号で『在原業平』を著した。本書は平安時代の貴族で歌人であった在原業平の伝記である。「鵬南」とは、天空万里にはばたく神なる鳥を意味する。これには、世界を駆けめぐろうというスケールの大きな志と、気概が込められている。
廣池は生涯にわたってさまざまな号を使った。青年時代には、中津地方の別名である「扇城」、『史学普及雑誌』では、関西方面での史学の中心的存在であろうと「西海」などを用いた。大正期には、ソクラテスに対する敬愛の念を示す「蘇哲」を使った。また、「幹堂」(かんどう)という号も使っている。天地の根幹、宇宙の堂守という意味で、世界の平和の使徒となろうという意志の表明である。



