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コラム
生涯と業績
本シリーズでは廣池千九郎の生涯と業績を、エピソードを交えながら詳しく紹介します(月毎に更新)。
No.10 耳病の苦しみと父の愛情 明治17年(1884) 【18歳】
明治17年から両耳に痛みが走り、耐えられないほどになった。毎日耳の中に薬を注いで洗ったため、耳の中の器官が腐敗し始めていた。両親はたいへん心配し、近隣の老人に灸をすえてもらうことにした。老人が薬の材料として「コウズ」(石亀の異名)の小便が必要だと言うので、簡単に手に入る時期ではなかったが、父・半六は大金をはたいてコウズを得た。するとその薬効があったのか、廣池の耳病は回復した。
No.09 ふたたび師範学校の受験に失敗 明治17年(1884)【18歳】
廣池は猛勉強に励み、再度、師範学校を受験したが、またもや算術の点が足りなかったために失敗した。故郷では父母が期待して待っているというのに、またしてもその期待に応えることができなかった。「同僚、我を笑わざる者なし」と記し、このころの漢詩には、「天は予を捨つるか」ともあり、志を実現できない苦衷が示されている。その後廣池は、師範学校に入学することをあきらめて、入学しないで学力認定試験によって卒業資格を得る方針を取った。この試験は「応請試業」と呼ばれていた。

No.08 小川含章に出会う 明治16年(1883)【17歳】
麗澤館で、廣池は生涯の師の一人、小川含章(おがわ がんしょう)と出会う。廣池は後年、この出会いが源となって、モラロジーが成立するに至ったと述べている。受験は失敗であったが、廣池の思想を培ってくれた出会いがあったことを考えると、幸運な面もあったといえるだろう。当時、含章はすでに72歳になっていたが、学び続けることをやめなかった。また、闇雲な近代化を進める日本を強く憂えていた。この日本の将来を憂える含章の心は、青年廣池の心を強く揺さぶった。また、含章は実学を重んじ、剣術や養蚕なども正課としている。この点でも、廣池に大きな影響を与えた。
※画像は小川含章

No.07 師範学校入試の失敗と麗澤館入塾 明治16年(1883) 【17歳】
廣池は明治16年7月、永添小学校を辞職し、大分県師範学校の入学試験を受けたが、算術ができずに不合格となった。そして、そのまま大分にとどまり、麗澤館という私塾に入って漢学を修めるかたわら、受験勉強を続けた。麗澤館の塾生の多くは塾内に起居し、師弟同学、師の人格的感化を受けながら勉学に励んだ。廣池の勉学にはすさまじいものがあり、入塾3、4か月ぐらいで代講を務めるようになった。その後、廣池が漢文法や東洋法制史の研究に新しい分野を開拓するようになった素地は、この麗澤館における修学で培われたといってよい。
※画像は大分県大分市錦町 麗澤館のあった来迎寺(らいこうじ)
No.06 永添小学校の助教となる──ボロ先生 明治13年(1880) 【14歳】
卒業当時、神経症を患っていた廣池に、戸長が永添小学校の助教(代用教員)になるようにすすめてくれた。廣池は同年7月、弱冠14歳にして母校の教壇に立つことになった。廣池は、朝は早く起きて馬草刈りに行き、学校にあっては児童の教育に専念し、学校が終われば田畑へ出て農業の手伝いをした。その間、暇があれば学力の増進をはかった。学校での廣池の姿は非常にみすぼらしく「ボロ先生」というあだ名がついていた。しかし、廣池の活躍はめざましく、月給も5円となった。小さな学校であったが、廣池は助教のまま校長代理を務めるまでになった。
No.05 病苦のはじまり 明治12年(1879) 【13歳】
廣池は、生涯を通して病気を背負い続けた。その発端は「12年春、頭痛」にある。明治13年の『日記』には「自分の神経が冒されているように思う。頭が重く、また、時にめまいや後頭部の痛みなどがある。卒業後はよりひどくなり、両親は心を痛めている。医師だ、薬だ、湯治だと懸命に治療を施したが、少しも回復しない」と記されている。
No.04 慶応義塾の姉妹校中津市学校に編入学 明治12年(1879) 【13歳】
明治12年、廣池は13歳の時に小学校を修了した。しかし、永添には上等小学校がなかったので、家から約一里半ばかり離れた中津市学校に編入学することになった。中津市学校は、福澤諭吉が東京の中津藩邸に開いた「慶応義塾」の姉妹校である。洋学を中心とした教育を行っている点、当時としては画期的に進歩していた学校だった。明治5年には付属女学校も設けられている。福澤の『学問のすゝめ』は、この中津市学校の開校を祝して起草されたものである。一時は関西第一の英学校と称されて中津地方の文明開化の推進力となった。近隣の人々は、廣池千九郎の進学に反対したが、半六は通わせた。廣池は、父親の気持ちを知っておおいに発奮し、家から学校までの約6キロの道を、寒暑、風雨にかかわらず通い、翌13年の6月、優等の成績で卒業した。

No.03 優秀な成績を修める 明治8年(1875) 【9歳】
廣池の通った永添小学校は、法華寺(ほっけじ)を借りて教室としており、寺子屋を名前だけ変えたようなものであった。指導は寺子屋時代からの古野静枝が引き続きあたった。千九郎の能力は、ほかの生徒とは比較にならないほどで、上級生を含む52人を飛び越えるような成績を挙げている。学業が優秀だということで、県から2度表彰されている。生徒の年齢は、10歳から15歳までとバラバラだった。成績がよかったことが災いし、上級生に目をつけられていたようである。
※画像は法華寺の門。
No.02 両親の教育──活発な子ども時代 明治8年(1875) 【9歳】
廣池は、幼名を千九一といった。時々いたずらもする活発な性格だった。親孝行で、家の手伝いをよくした。廣池が本を読み始めたのは、父半六が教育熱心だったことから考えれば、わりあい早い時期であったと思われる。廣池は明治8年に永添小学校に入学した。半六の子どもに対する教育方針は、きわめて厳格なものであった。りえは日頃から、「親、祖先に感謝する」ということを教えた。毎朝学校に登る前に馬の草を刈り、学校から帰れば早速、農業の手伝いをした。その間、寸時も本を離さずに勉強をしたという。学友によれば、勉強家で7、8歳のときまでに国学や漢学によく通じていたようだ。厳格な両親によく仕えたので、当時の人たちが感心して、あの子はただ人ではないという評判があった。また、小学校に登るころには何でもできるので、校長も感心していた。

No.01 大分県中津市の廣池家長男として生まれる 慶応2年(1866) 【0歳】
元号が明治に変わる2年前の、慶応2年(1866)3月29日、廣池千九郎は、豊前国下毛郡鶴居村(現在の大分県中津市大字永添)に、廣池半六・りえ夫妻の長男として産声を上げた。千九郎の父半六の家系は、宇佐八幡宮の祠官(しかん)から別れた家柄で、神武天皇東征の時、天皇に奉仕した菟狭津彦命(うさつひこのみこと)の末裔であるといわれている。廣池家は、中程度の農家であったが、決して楽な生活ではなかった。半六は農業のかたわら養蚕を行ったり、漆の木を植えるなど、積極的に仕事に取り組んでいた。
※画像は廣池千九郎の生家。



