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コラム

生涯と業績

本シリーズでは廣池千九郎の生涯と業績を、エピソードを交えながら詳しく紹介します(月毎に更新)。

No.20 生徒が語る当時の廣池  明治21年(1888) 【22歳】

このころ生徒だった人々の晩年の回想が、いくつか残っている。廣池は「学校の付近にある公園でいつも体操をしていた」という。「運動の時も元気よく腕を前後に振って、こぶしを握っており、特徴のある気ばった歩き方をしていた」そうだ。まるでその姿が目に浮かぶようである。生徒に対しては「教育的態度は真面目で、いつも肚の底から出るような誠心誠意なものがあって、生徒がよくついていった」という。漢文が非常に達者で「いつも、なにごとにも気合いが入っていた」とある。初代中津市長の佐藤寅二は「若さに似合わぬ風格があったが、かといって、恐ろしい、よりつけない、というふうでもなかった。たいへん親しみやすいお方でございました」と語っている。

No.19 中津高等小学校で手工科・寄宿舎を設置  明治21年(1888) 【22歳】

明治21年、廣池は中津高等小学校に赴任した。相変わらず教育に熱心で、ふだんは学校の宿直室に泊まり、家へ帰るのは月に数回であった。廣池はここでも、現在の技術家庭科にあたる手工科を設け、寄宿舎を設置するなど、さまざまな工夫を凝らしている。手工科設置のねらいは「手の動作を発達させて、将来職業に就く際の助け」とするとともに、「心と目と手の関係を密接にして、行為の発達を心身の発達と並行させること」にあった。赴任後、直ちに校長とはかって寄宿舎をつくり、3人の生徒を入寮させた。金銭の出納や管理に万全を期して、保護者の信用を得られるようにした。廣池は、朝夕生徒たちに無料で授業を行ったため、生徒たちは常に各クラスの首位を占めるようになった。これが評判になり、開寮してから約1年で、40人が寄宿生となった。

No.18 『蚕業新説製種要論』の執筆  明治20年(1887) 【21歳】

明治19年ごろ、廣池は「教師は理論だけでなく、実際の経験を通して地場産業に対する理解を培うべき」という考えのもと、下毛郡の主産業である養蚕の研究に着手した。大分県内外の養蚕地の調査を行い、養蚕で名の通った田島弥平(たじま やへい)の助言も仰ぎ、明治20年に『蚕業新説製種要論』(校本)という手引き書を著した。研究成果をもとに村民の指導にもあたっている。

画像は『蚕業新説製種要論』の一部

No.17 万田小学校での教育改革 明治20年(1887) 【21歳】

明治20年、廣池は万田(まだ)小学校に赴任した。この小学校は、下毛郡内では、中津を除けば一番大きな小学校だった。しかし登校者数は、地域の学齢の1割程度というひどい状態だった。廣池は、出席をうながす文書をつくり、父兄に配って歩いた。そのかいがあって、出席者は徐々に増えた。しかし、廣池の栄転を羨み、敵視する同僚や地域の人々もいて、廣池は苦境に立った。理想に燃えていた廣池は、いっそう校風の立て直しと教育の改革に情熱を傾け、時には病をおして登校した。廣池の努力で万田校もしだいに改善されていった。また廣池は、このような苦難の中でも、道徳の教材集などの著作に集中した。さまざまな苦境の中にあっても教育・学問への情熱は衰えなかった。

No.16 仏坂の別れ  明治20年(1887) 【21歳】

廣池は2年間の勤務を経て、形田小から転勤することになった。人望の厚かった廣池の転勤を、生徒や保護者は非常に惜しんだ。廣池が、形田村を離れる日、人々は廣池を送るため、子供を着飾らせ、酒や肴を用意した。別れの宴は、夏に向かう途中の仏坂で催された。学校には生徒は20人くらいしかいなかったのに、村人も含めて200人余りの人々が見送りに来た。村人は名残り惜しんで、山向うまでついてきた。そこでまた宴会となり、太陽が沈むころになってようやく別れを告げた。この場面は、廣池に教育者としての思いを強くする機会となった。

​※写真は明治期の仏坂(大分県中津市)

No.15 夜間学校と巡回授業  明治19年(1886) 【20歳】

廣池は考えた末に、夜間学校の計画を立てた。また、生徒の家庭環境を事前に調査しておき、家を訪ねて教育の必要性を説いた。この地道な苦労が実って、夜間学校は開設された。当初は学校で授業を行っていたが、出席者数が減少したため、人家を借りて出張授業をすることとした。この方法によって、出席者数は以前の数倍になった。学科は、読み方、作文、算術の3科目に限り、日常生活で使用するものを中心に教えた。運営費は、初めは廣池がみずから負担し、それからその後有志者の援助を受けるようにした。夜間学校はおおいに好評を得た。廣池は、土曜・日曜に家に帰るだけで、週日は教育に献身した。こうした経験をもとに『遠郷僻地夜間学校教育法』(稿本 ※『新編小学修身用書』巻之三 平成26年復刊 所収)を著している。

No.14 ペスタロッチを目指して──廣池の教育思想  明治19年(1886) 【20歳】

形田(かただ)小学校での苦難の中、廣池は改めて自らの気持ちを確かめている。廣池にとって、教育・学問とは個人の立身出世のための方便、あるいは知的好奇心を満足させるためのものではなかった。新しい産業を興し、民力の増進や社会の福祉に貢献することのできる人材の育成を目的としていた。

廣池の胸中には、スイスの大教育家ペスタロッチの姿が思い描かれていた。当時の日記に「将来は事業を興し富を得て、ペスタロッチのように貧しい子供たちを養おう」という決意が記されている。廣池は、国家の浮沈を左右するものは教育にあると確信し、自分自身がその使命を全うしようとしていた。

No.13 苦難のスタート──形田小学校へ赴任  明治18年(1885) 【19歳】

明治19年、廣池は下毛郡の形田(かただ)小学校に奉職した。大きな理想を描き、「この学校で一大改革を行い、本郡の教育の改良をはかりたい」と熱情を燃やしていた。しかし、村全体に教育に対する熱意がなく、児童の半分程度しか登校してこなかった。廣池は、精力的に力を尽くしたが、成果は上がらなかった。「思い込んだ私の願いも皆水泡に帰してしまった」と嘆いた。その年の夏には、精神の過労から胃腸病にかかって1か月余りも休まなければならなくなってしまった。しかし、廣池は諦めることなく、教育現場の改善を図っていく。

 

※写真は形田小学校の跡地。

No.12 念願達成──応請試業の合格  明治18年(1885) 【19歳】

 廣池は、受験準備に励むこと1年有余、ついに難関を突破し、師範学校に学ぶことなく、初等師範科の卒業証書を与えられた。廣池はこの時のことを「父母は天に昇ったかのように喜び、また空に舞い上がったように喜んだ。狂喜と呼べるようなその喜びは、言葉に表すことができないほどであった」と書いている。廣池自身の喜びもまた筆舌に尽くしがたいものがあったろう。こうして廣池は、明治18年3月、19歳で念願の訓導(当時の小学校教諭の名称)として下毛郡形田(かただ)小学校に赴任した。なお、同年8月には法律が改正され、師範学校に入学しないで卒業資格を得る制度は廃止されている。廣池が受験できたのは、おそらく最後の機会であったろう。

 

※写真は廣池の卒業証書。

No.11 恋心、前途の不安…青春の苦悩  明治17年(1884) 【18歳】

このころ、廣池は橋本ゑんという女性から交際を申し込まれたようである。廣池は多少心を動かされたが、受験のことを思って迷う気持ちを引き締めた。このころは、前途のことを思うと、次から次へと不安が生じ、眠ろうとしても眠ることができず、勉強しようとしても手がつかなかったようだ。そんなある日、大分市郊外の双葉山に登り、柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう)に参拝し誓いを立てている。遠い昔、先祖が宇佐八幡に仕える神官だったことを思い起こして、廣池はここに詣でたのである。

 

※写真は柞原八幡宮本殿。

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