
Series Article
連 載
生涯と業績
本シリーズでは廣池千九郎の生涯と業績を、エピソードを交えながら詳しく紹介します(月毎に更新)。
NO.89 親孝行の話 大正8年(1919)【53歳】

廣池の講演は、学術的な理論に基づく専門性の高い内容ではあったが、対象にあわせて説き方を変えていたこともあって、このころから更に盛況になっていった。たとえば、わかりやすく平易に話したものとして、2月の講演が挙げられる。「親孝行の話」と題された本講演の前半では、古代東洋西洋それぞれにおける孝行にまつわる話を踏まえ、「親を大切にする道徳は、人間の発明したもの」と説いた。後半では、孝心の深い人物ほど社会で活躍しているという実例と自身の実体験を述べ、最後に親だけでなく長上の人に対しても孝心をもって接することが「立身出世の第一歩」と結んだ。要するに、孝行の発達を説き、事実をもってその効果を示し、心使いの伴った実行を推奨している。
当時の講演としては珍しく聴講者の感想も残っている。一部を取り上げると〝前途に光々たる希望がみちみちてきました″〝昨夜のお話に「子をやしなうや親またず」とありました。早速母を喜ばすように致します″と、好評であったことが伺える。
画像は、本講演の要旨と聴講者の感想が掲載された『汎愛教育』128号
(令和3年度企画展示 資料)。
NO.88 廣池と中野金次郎① 大正7年(1918)【52歳】
大正年間に廣池は講演活動の他、経営指導も行うようになった。廣池の道徳的経営の指導により、事業が好転した企業家の中から、研究費の援助を申し出る者が出てきた。その一人が中野金次郎※である。中野は長年にわたって資金を提供したが、これは “思い返せば、廣池先生のご指導がなければどうなっていたか。戦慄の情を禁じ得ない”と後年回想しているように、公私にわたる廣池の指導に信頼を寄せていたからであった。
大正4年、廣池の講演に感銘を受けた中野は従業員を連れて聴講を重ね、大正7年頃に親交を結んだ。廣池の助言を守ることで事業だけではなく、健康面や家庭の問題なども解決した。危機を回避した例は、大正7年の米騒動が挙げられる。廣池の指示に従い、中野は別荘の建築費用を社会事業に拠出した。この活動が評判を良くしたのであろう、近所の富豪、財閥、米屋が焼き討ちに合う中、“中野さんはお徳の高い家だから”と、襲撃を免れたという。中野の回想の背景には、このようなエピソードがあった。
※1882~1957。「運送王」と称された企業家。海運業で身を立てたあと、国内の運送業界をまとめ上げ、大正15年、合同運送を設立。昭和3年には内国通運、国際運送、明治運送を合併し、国際通運(日本通運の前身)社長に就任。昭和19年より興亜火災海上社長。
NO.87 『斯道』への寄稿 大正6年(1917)【51歳】
廣池の斯道会(NO.82)を通じての活動は、講演の他、機関紙『斯道』への寄稿が挙げられる。全100号に及ぶ本誌のうち、廣池の論説・談話は56本掲載された。内容は、奉仕の精神や親孝行などの道徳、自分が苦労して成功した体験、理想の宗教像、政治問題や労働問題の解決法などである。
大正6年発行の第38号と39号には、「私が苦学の経路」という文章が2回に分けて連載された。本文では、志を立て郷里中津を出たこと、京都における生活、早稲田大学の講師就任などの略歴とともに、その間における自身の孝行について語られている。決して裕福とは言えない生活の中でも工面して親に尽くしたのは、少年時代に母親から受けた孝行の教えがあったからだと述べている。
廣池は孝行を自ら実践するだけでなく、門人の指導でも講演でも、その大切さを説き、実行を促した。昭和4年には『孝道の科学的研究』を著し、より質の高い孝行の推奨に努めている。母の孝行の教訓は、廣池にとって終生のテーマであった。
NO.86 要人への働きかけ 大正6~11年
廣池は最高道徳の必要性を、講演活動だけでなく、直接的に政界官界の要人へ働きかけていた。例えば、山県有朋(大正6年、9年)や松方正義(大正11年)を訪問し、モラル・サイエンス研究について説いている。2人は廣池の研究に多大の賛意を表明していた。特に松方は廣池の話を聞いて「あなたの最高道徳に関する説にはいちいち感じ入りました。明治天皇は私に対して、たびたび誠でなければいかん、誠であるならば必ず成功すると仰せられましたが、陛下ご一代の御事業はまったく祖宗(編集者注:歴代の天皇)のご意思に従われ、その至誠天地に感通するお心・行いの結果であると存じます」と語ったという。
以上の2人のほか、廣池は大隈重信や枢密顧問官佐々木高行侯爵も訪問し、最高道徳の話をしている。
このように廣池は道徳に関する研究の成果を国家の指導者層から国民一般へと普及し、その実行を促そうとした。
NO.85 大木遠吉主催の講演会 大正8年(1919) 【53歳】
廣池は斯道会の活動を通じて大木遠吉伯爵と出会った。大木は道徳に高い関心をもつ貴族院議員※で、早くから廣池のモラル・サイエンス研究に注目していた。大正8年5月、廣池は大木に最高道徳について話をしている。大木は“日本の道徳の核心は慈悲寛大自己反省の精神にある”という廣池の見解におおいに感銘を受けた。数回話を聞いたあと、大木は“最高道徳を求める者を日本の政治家、実業家に2、30人はつくりたい。そうすれば政治も産業、ひいては教育も改善できるであろう。よって華族会館で最高道徳の講演会を開きたい。一つ骨を折ってくれないか”(意訳)と、廣池に講演を依頼した。こうして開かれた講演会には憂国の政治家、海軍・陸軍の将校、実業家、華族などが出席した。大木は多忙なスケジュールを割いて、計5回の講演会(連名のものを含む)を主催している。大正時代に廣池の研究が国家の要人へと浸透した背景には大木の尽力があった。
※大正9年 原敬内閣で司法大臣に就任、のちに鉄道大臣を務めた。仁義に厚い性格であったという。
NO.84 モラル・サイエンス研究からモラロジーへ 大正年間
廣池は青年時代から道徳について深い関心を持ち、着実に研究を進めてきた。明治時代は、世界的に経済学、社会学、心理学など多くの学問が科学として研究され始めた時代であった。そのような状況において、廣池は、道徳に関する科学を樹立することが必要であり、また可能であることを自覚し、それをみずからの課題とした。欧米では、道徳科学(モラル・サイエンス)を意図した学者は少なくない。
その後、廣池は自身の研究成果とその理論に基づく道徳の実践を通して、質の高い道徳(最高道徳)を発見し、ますます道徳科学樹立の必要性を痛感した。従来のモラル・サイエンスでは道徳概念が狭いこと、精神作用の研究が欠けていること、最高道徳の研究がまったく存在していないことなどの理由から、新しい学問領域を構築しようとした。つまり、廣池は単に道徳だけでなく、最高道徳をも対象として研究に取り組んだ。この独自の研究成果を従来のモラル・サイエンスと混同されないように、廣池はモラロジーという学術語をつくったのである。
NO.83 モラル・サイエンス 大正7年 【52歳】
大正7、8年頃から廣池は「モラル・サイエンス」をテーマにした講演を多く行った。記録に残っている中で、その初出は大正7年6月28日東京高等師範学校で行われた講演であった。演題は「モラル・サイエンスと国民道徳」。
講話のメモからは、道徳実行の効果を進化論や遺伝学などの最新の科学によって説明しようとしたこと、そのためにモラル・サイエンスの研究が必要であると主張したことが読み取れる。またメモに見られる「徳と力の比較」「老人尊重の合理的理由」「現代思想の誤謬」という項目は、後の著作でも展開される論点である。
講演会では、嘉納治五郎校長をはじめとした聴講者が盛んに質疑を行ったという。